他者恐怖と「ベッタリ」ナショナリズム

今度はApes! Not Monkeys!にお出かけ。
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1172174836/E2139103754/index.html

apemanさんの以下の発言は実に鋭い。

(apemanさん )
彼我にあれだけの犠牲者を出した戦争について「仕方がなかったのだ」と考えることそれ自体の問題性(→『アウシュヴィッツの<回教徒>』)をひとまずおくにしても、「仕方がなかった」の背後にあってしかるべき痛切さが、少なくともネット上に見られる「大日本帝国の戦争」肯定論にはまったく感じられない。本来であれば、
天皇制の存続を願うからこそ、昭和天皇は退位すべきだったと考える
・「大東亜共栄圏」の理念を信じるからこそ、その理念から逸脱した虐殺・略奪を批判する
・「大東亜戦争」は聖戦だと信じるからこそ、戦略を欠き敗戦に導いた指導者を弾劾する
・日本という国家の道義性に誇りを持つからこそ捕虜の虐待・殺害の実態を自ら究明する
・同胞を愛するからこそ、勝ち目のない戦争を始め、戦略的・戦術的に無意味な戦病死者を出した軍部を批判する
… などなどは、「保守」ないし「右派」の自意識を持つ人間にとってこそ十分採用可能な見地であるはずだし、少数とはいえ実際にそう考える保守・右派だっているわけだ。こうした“もち得たはずのパースペクティヴ”から多くの右派を遠ざけているのは「仕方がなかった」という発想なのではないのだろうか。

保阪正康氏や半藤一利氏は、ここでいう「少数の保守・右派」に含まれると思うが、確かにネット上で見かける頻度は低い気がする。

(apemanさん )
とはいえ、その「仕方がなかった」に説得的に(つまり相手の土俵にのったうえで)反論するためにはこちらにも相当の準備がいるだろう…ということで前途遼遠。

コメント欄。

青狐(bluefox014)
漠然と思うのですが、「仕方がなかった」論というのは、「外部」(外国)からの批判・追及から「内部」(愛国者の集団)を守る、あるいはそれらの批判に「屈しない」ためには有効かもしれませんが、こういうロジックを採用することで「内部」は極めてナアナアでベッタリした空間になっていくように思いますね。

でも実際、「ベッタリ」とした「内部」で構わない、という人は確実に存在すると思います。要は外国からの追及がウザイ、追及の棘から逃れることが最重要である人というのが。こういう、一種他者恐怖のようなメンタリティの人に対してどういう言葉が有効なのか、悩むところです。

最近つくづく思うのだが、ナショナリズムの拡大に「愛国心」はいらない。必要不可欠ではない。外国が怖い、外国からの追及がウザイ、それだけで充分のようだ。
最近、石原慎太郎発言を契機に南京事件をめぐる議論をいくつかのブログでしてみたのだが、そういう実感が強まりつつある。
しかし、ナショナリズムが韓中や嫌韓感情、他者恐怖に依存することによって、内部の対立や敵対、緊張関係について鈍感になっていく傾向も既に現れているように思う。そういう現象をとりあえず〈「ベッタリ」ナショナリズム〉と呼ぼうと思う。