「ベッタリ」ナショナリズムと「動員」への批判力の低下

私はこう述べた。

しかし、ナショナリズムが韓中や嫌韓感情、他者恐怖に依存することによって、内部の対立や敵対、緊張関係について鈍感になっていく傾向も既に現れているように思う。そういう現象をとりあえず〈「ベッタリ」ナショナリズム〉と呼ぼうと思う。

deadletterさんはいう。

「内部の緊張関係」なんてことにまで気を回していたら、「他者に付け込まれない事」の達成が危ぶまれる。だからこそ内部の問題についてはむしろ「鈍感」たらざるを得ない。「鈍感」であることは必然だ、ということも言えるような気がします


具体的に何が鈍っていくのか。
私が最も注目しているのは、「動員」に対する批判力視点の低下である。

「動員」については、当ブログでも幾度か議論の俎上に上っている。
10月30日コメント欄で hokusyuさんはこう問題提起した。

戦争が投機的であることと、人命を投機的な目的で消費することの是非は確かに別なことです。しかし、後者に踏み込まずに前者だけで語られる歴史に何の意味があるのでしょうか。

それに触発されつつ、同日コメント欄で私はこう述べた。

仮にある時期にはある程度の「投機」は認めるとしましょう。しかしそういう前提においても、日中戦争が「許容される投機」の範疇に含まれるのか、否か。これが第二の論点だと思います。


あの時期、国民が国家に動員された。それを容易に「仕方ない」と受容してしまう前に「おい待て、同胞(国民)はそこで兵士に動員される必要があったのか」と立ち止まり、検証し、さらに「動員した側」の責任を考え直すことは「ナショナリスト」の側においても可能なはずだ。

しかし、中・韓からの追及に屈したくない人達は、戦争指導者の靖国合祀を擁護する。そこで戦争指導者の責任を問いただすことは分祀論に道を開く(中・韓に隙を与える)ことになる。したがって先のような批判的視点は「自主規制」を余儀なくされる。
こういう「自主規制」を自らに強いることは多少の「自己欺瞞」が伴わざるをえない。11月15日エントリで私はこう書いた。

しかしそれでも、彼/彼女らは「英霊達が今の平和の礎になった」という物語(フィクション)を信じる。というか騙される。自らすすんで騙される。


補足すれば、こういう批判力の低下を側面(いや、正面か)から促しているのが、自由主義史観研究会つくる会の言説だろう。このような団体が発する言説(例えば「帝国主義の時代ですから‥」)が流布されるほど、「自主規制」の必要もなく「動員」の正当性が受容されるわけだ。(このあたり、「物語」というキーワードが絡んでくるが今回は割愛)


そして、これは過去解釈の問題にとどまらない。このような過去の「動員」に対する批判力の低下は、「未来の」動員の動きに対しての抵抗力を著しく弱めるのではないか?