だらしない思考(当事者性の欠如、当事者性の蒸発)

コメントの転載です。肉付けする点はいろいろあれど、とりあえずエントリ。
11月4日コメント欄より。

# apesnotmonkeys

実は hokusyu さんの問題提起がいま読みかけの本と重なりあうのでコメントさせていただこうかと思いつつ、つい書きそびれておりました。ところが(中略)に「やむを得なかった」というフレーズを発見して、やはりこの種のだらしない思考は見過ごすべきでないと痛感しました。
読みかけの本というのは『アウシュヴィッツの<回教徒>』(春秋社)なのですが、そこでは強制収容所の生存者にすらみられる「(彼らが死に、私が生き残ったのは)仕方なかったのだ」という思考が厳しく批判されています。もちろんこれは「被害者を責める」ことにつながりかねない危うい批判ではあるのですが、日本が始めた戦争を「やむを得なかった」としてしまう当事者意識の欠如はなおさら批判されねばならないでしょう。』 (2005/11/15 11:23)

# bluefox014

>「やむを得なかった」というフレーズを発見して

(中略)日中戦争・太平洋戦争への流れは「運命的なもの」だった、という発言まで出てきていますね(笑)。
いわゆる「自衛戦争」論では立ちゆかなくなると「やむをえなかった」論がでてくるわけですが、「運命」という次元では当事者責任という概念は蒸発されてしまいますね。

「やむを得なかった」論においては「当事者責任」が逃避されるが、「運命だった」論においてはこの「逃避」が合理化される。だって運命なんだもん。

# bluefox014
それに比べると、戦争は「投機」であった、というロジックは実に正直というか、当事者責任が蒸発せず議論の遡上に残っているという点ではある意味すっきりしていて、問題が明確になりますね。』 (2005/11/17 04:50)

# apesnotmonkeys
『なるほどそうですね。「投機」であれば“当然予想された失敗”については責任を問うロジックが通用するわけですから。』 (2005/11/17 09:08)

「戦争は投機」論は、実に貴重だった。totalさんに感謝。