日中戦争に関する「二分論」はこのまま葬り去られるのか?(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060809/p2#cよりswan_slabさんの発言。

swan_slab
(略)
木走氏のエントリコメント欄はその後、お約束といっていい、歴史相対主義的な議論、仕方がなかった論、人間の性論の洗礼をへているわけですが、「ヒトラーよりスターリンのほうがひどい」式の相対主義に被害国との関係をいかに修復していくかという視点がすっぽり抜け落ちているのは、要は、被害国、被害者と別にいい関係を築こうとは思わないとの黙示の前提があるんじゃないでしょうかねぇ。べつにはげしく仲良くすべきだと主張したいわけじゃなくて、すくなくとも戦後処理については戦略的な振る舞いがある程度共通認識として要求されると私は考えているのです。つまりお互いの当事国がどういう絵を描いて日本は戦後処理をこなしてきたか、ということについてです。

私自身はそういうおなじみの議論よりも、むしろ、木走氏のブロガーとしての態度に問題ありと思っています(以下略)


ここで私の気を留めたのは「被害国との関係をいかに修復していくかという視点」と「戦略的な振る舞いがある程度共通認識として要求される」の2つの言葉。
日本の戦争指導者と(巻き込まれた)一般国民を分ける「二分論」モデルで、「一部戦争指導者」が日中戦争を起こしたという歴史観は、ナチスドイツ国民という「二分論」モデルと同じだろう。これは粗雑ではあったが、それなりの戦略性があった。
しかし最近の日本の歴史修正主義はこの「二分論」自体を葬ってしまうほうに議論をドライブしている。この方向にドライブしたのが東条英機たちの遺族と靖国神社のコラボレーションである(日中戦争正当論。遊就館史観)。「日本のお姉さん」というブログの主張に、そういう歴史観がよく表れている。
http://ameblo.jp/nyaonnyaon/entry-10015926256.html#c10027066195


こういう反二分論的史観というのは、同時に(私の言うところの)「ベッタリ・ナショナリズム」的性格を帯びる。日中戦争に国民を動員したこと自体を正当化するのだから。

靖国問題というのは、実は「二分論」対「反二分論」のせめぎあい、という側面を持っていると思う。小泉氏自身は、自身の参拝が「反二分論」に与する、ということには無自覚(または空とぼけ)だったと思われるが、安倍氏の場合は、より確信犯的に「反二分論」の側にコミットする可能性もある。

こういう流れに対し、どういう戦略が可能だろうか。