南京事件「どっちもどっちなので保留」派は日本側史料を読むといいよ。

日本軍の史料だけでも「南京事件」の存在は確認できます。
焼却された史料も多く、また、そもそも加害者側の史料だけで事件の全貌や規模を推量するのは無理があるわけですが、どういう性質の事件が起こったかは確認できます。

南京事件に関して「どっちもどっち」派の方が多くおられる背景には、以下に紹介するような史料が(あまり)知られていない、ということがあります。
その原因は、まずは日本政府の怠慢。それから、否定派の文献ではほとんど紹介されないこと。

おかげで、

 あった派=「中国(&連合国)史料派
なかった派=「日本史料派」

みたいな二項対立が信じられているように思うのですが、それ、偽りの構図ですから。



まあ以下の史料を読んでみてください。数量化はできませんが、ともかく侵略側が酷いことをした、という事実だけは確認できるでしょうから。

加えて重要な事実は、日本軍兵士(正確には、徴兵され兵士となった日本人)は、被害者であり同時に加害者であるということです。
これは小田実ベトナム戦争に動員されるアメリカ兵士に関して述べたことと、ぴったり重なります。

もう少しきめをこまかくして言えば、彼は「被害者」であるにもかかわらず「加害者」になっているのではない。まさに「被害者」であるゆえにこそ「加害者」になっている

『われ=われの哲学』(岩波新書、1986年)134頁


(1)
現地の日本軍はもともと南京侵攻に際して「大量虐殺」も辞さず、というスタンスだったんですね。
毒ガスで「南京市街を廃墟たらしむ」という戦術案を考えていたくらいですから。
以下、http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20061102より再掲。

「丁集団参謀長発次官あて」作戦案は第一案と第二案に分かれている。(以下、藤原彰「南京の日本軍」より転載)第一案は、追撃の態勢のまま一挙に南京を急遽急襲奪取するというもの、第二案は急襲が成功しなかった場合のもので、つぎのように述べている。
(太字は青狐による)

南京ヲ急襲ニヨリ奪取シ得エザル場合ノ攻略案

此ノ場合ニ於イテモ正攻法ノ要領ニヨリ力攻スルコトヲ避ケ左記ノ要領ニ依リ攻略ス
急襲案ト同一要領ニヨリ先ズ南京ニ急追シテ包囲態勢ヲ完了シ主トシテ南京市街ニ対シ徹底的ニ空爆特ニ「イペリット」及焼夷弾ヲ以テスル爆撃ヲ約一週間連続的ニ実行シ南京市街ヲ廃墟タラシム
(中略)
本攻撃ニ於イテハ徹底的ニ毒瓦斯ヲ使用スルコト極メテ肝要ニシテ此際毒瓦斯使用ヲ躊躇シテ再ビ上海戦ノ如キ多大ノ犠牲ヲ払フ如キハ忍ビ得ザルトコロナリ

(丁集団は第十軍のコードネーム。「第十軍」は複数の師団で編成された数万規模の軍で、杭州湾から上陸し南京に侵攻した。司令官は柳川兵助中将)
(いっぽう、「上海派遣軍」も複数の師団で編成された10万規模の軍で、上海戦勝利後に(第十軍と別ルートで)南京に侵攻した。上海派遣軍と第十軍とを併せて「中支方面軍」が編成され、上海派遣軍司令官の松井石根大将が方面軍の司令官となる)



(2)

で、大規模な毒ガス攻撃は行わなかったようですが、第十軍傘下の第六師団(通称熊本師団、熊本兵団)は、敗兵と難民を大量殺害して「一帯の沼沢は死屍で埋められたという」(熊本兵団戦史)「河岸一面死体を以て覆はれたる状態を生じた」(谷寿夫師団長の軍状報告)結果を生んでいます。

 それではわが郷土の第六師団はこの南京事件にどんな役割を果たしたのだろうか。
 中国側軍事裁判の資料によれば虐殺された者は四十三万人、うち第六師団によると推定される者二十三万人。第十六師団十四万人、その他六万人という数字をあげている。
 しかし実際には前述のように四十三万人の中には正規の戦闘行為による戦死者が大部分を占めていると推定される。もし戦闘行為を含むものであれば、第六師団は中国軍にとって最大の加害者であることに間違いはない。北支の戦場において、また直前の湖東会戦において、熊本兵団が敵に加えた打撃はきわめて大で、余山鎮、三家村付近だけでも死屍るいるいの損害を与えていた。
 のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。
 これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている。
(「熊本師団戦史」P128〜P129)


戦史の筆者は正当化しているけど、「敗兵」と「難民」を大量殺害したこと自体は認めている。戦時国際法に照らし合わせれば難民殺害は不法殺害ですね。
あと、敗走兵の殺害は戦時国際法上は合法とされるでしょうが、侵略された側が「虐殺」と受け止めるのも不思議ではないでしょう。



(3)
また、戦闘とは無関係の市民殺害も、日本人外交官の証言で確認できます。
大使館参事官だった日高信六郎氏の証言。

そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。戦争がすんでホッとしたときに、食糧はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして燃す前に、床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと、「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。

広田弘毅広田弘毅伝記刊行会(1966、1992)

(4)

上記日高の証言では、戦闘終了後に「食糧はないし、燃料もない」とありますが、実際は南京への侵攻への当初から、日本軍は兵士に食糧も燃料もロクに持たせていなかった。適地に送られ、食糧ももらえず、300キロ内陸へ進軍させられる。
酷い話です。日本軍による自国兵士への虐待です。

では日本軍兵士はどうするか。現地の中国人から「徴発」しないと生命を維持できないわけです。
侵略軍が被侵略者から「徴発」すること自体が問題ですが(たとえお金を払っても)、多くはお金すら払わない「略奪」行為となりました。この事実も日本軍史料から確認できます。


第十軍が陸軍次官宛に送付した一九三八年一一月一八日付「丁集団総合報告」の一節。

丁集団作戦地域は地方物資特に米、野菜、肉類は全く糧を敵に依るを得たり

上海派遣軍の第九師団参謀部「第九師団作戦経過の概要」の一節。

軍補給点の推進は師団の追撃前進に追随するを得ずして、上海付近より南京に至る約百里の間、殆ど糧秣の補給を受くることなく殆ど現地物資のみに依り追撃を敢行

第十一師団の経理部員だった矢部俊雄氏は上海上陸から無錫までの間をこう記す。

一銭も円を使っていないんです。全部、徴発ですね。…おそらく第三師団も同じような状況で、二ヶ月半というものは一銭も使っていないです(『兵科物語陸軍経理部よもやま話(その7)』)

憲兵だった上砂勝七少将の証言(上砂勝七「憲兵三十一年」より)

「第一線部隊の携行糧秣は瞬く間に無くなり、補給は続かず、全く「糧食を敵による」戦法に出なけれはならない有様であって、勢い徴発によったのである。
然しこの徴発たるや、徴発令に基く正当な徴発は、現地官民共に四散しているため実行不可能で、自然無断徴用の形となり、色々の弊害を伴った。この情勢を見ていた軍経理部長は、「こんな無茶な作戦計画があるものか、こんな計画では到底経理部長としては補給担当の責任は持てないから、離任して内地へ帰えらして貰う」といきりたった程で、参謀長田辺盛武少将の口添えでその場はおさまったが…」
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20050430

さらに、中国人の家を壊して薪にし、飯を炊いていたという記録も。
歩兵第33聯隊(第十六師団、歩兵第30旅団傘下)の召集兵だった高島市良氏の日記(「日中戦争従軍記、2001年、非売品。吉田裕「日本の軍隊」(岩波新書)174頁所収)

雨は降るし、飯盒炊事するにも薪はない。手当り次第に家を壊して焚く(1937年11月17日)

第十六師団の歩兵第三〇旅団長の佐々木至一少将の日記、三七年一一月二七日、無錫にて。

「城内外を視察す。種々雑多な兵隊でゴッタ返し徴発物資を洋車につんで陸続と行くあたりまるで百鬼夜行である。敬礼も不確実、服装もひどいのがある

さらに地元の「土民」を拉致し強制労働したという事例も、日本側証言で確認できます。
第九師団の経理部将校であった渡辺卯七氏の回想録の一節。

昆山附出してからは土民の影もちらほら見ゆる。…兵は青壮年らしき者を見るや否や今まで気息奄々して落伍しそうな者までが急に元気になってまるで運動会の旗取り競争そのままに数人の者が申し合わせた様に一斉に部隊から飛び出した。何事があったかと見れば逃げ迷ふ者を包囲して捕らえんと競争しているのである。斯くして捕らえられた土民は捕らえた者の所有物とされて背嚢を背負わされ雑嚢や水筒をかけられて一人前の兵のような姿で部隊とともに行軍するの光栄に浴する。兵は彼の後ろから銃をかついで意気揚々として監視しながらついて行く。…夜になれば彼らは概ね逃ぐるか天国へ逃ぐるのである

(5)
日本軍史料にはほとんど記述がない出来事があります。強姦などの性犯罪です。しかし、陸軍中枢の人事局長の実地調査直後の報告は、以下のようなものでした。

38年1月12日の陸軍局長会議での、阿南大将(人事局長)の報告。

http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060718/p2
軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、掠奪たえず、現に厳重に取り締まりに努力しつつあるも部下の掌握不十分、身教育補充兵等に問題なおたえず。