tdamさんの史料提示があまりに酷すぎて、南京事件の議論をする資格が強く疑われるという件

「tdamさん祭り」があちこちで盛り上がっているので、一瞬躊躇したが、やはり酷いものは酷いと言っておく必要はある。
http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20110103/p1#cで、tdamさんの史料提示があまりに酷すぎる件。

※tdamさんの名誉のために言っておくと、彼は東中野修道氏のような「なかった派」「完全否定派」ではない。ただ、そのことと以下で紹介することは別問題である。



私は、「日本軍(第十軍、第11師団等)は南京侵攻時、軍組織全体として掠奪を繰り返し行った、もっぱら掠奪によって食糧を得ていた、と主張していたわけだが、これに対してtdamさんが以下のように反論してきた。

tdam 2011/01/10 13:40

以下は徴発が正しく行われていたことを示す証言の例です。このような証言がある中では、日本軍が「専ら徴発によって」食糧調達を依存していたという主張は成り立たないと思うが…。実際のところ、日本軍も国民党軍も徴発も略奪も虐殺も行っていたというところが真実でしょう。

ところが、問題は彼が提示した史料。
最初の2つ、

榊原主計証言(上海派遣軍参謀部員)

敦賀歩兵第18旅団の斎藤敏胤氏の証言

私のみるところ、榊原証言は「組織的掠奪」の存在を示す証言なのだが、これは後日検証する。

明らかに酷いのはその次からである。

"歩兵上等兵従軍記「征野千里」谷口勝著

 昭和13年12月(GHQ焚書図書開封)に南京事変で戦闘が終わったあと、南京から南西の蕪湖に駐留したときのことが書かれています。現地で支那兵捕虜に金を渡して徴発したことが書かれています。"
"李はおそらく盗んできた(というか、盗むことが悪という認識がない)ようですが、それを日本兵が指示したとなれば大変なことになるので、この兵隊さんは怒っているのです。日本軍の軍規が根付いていたことがわかります。"

太字の通り、明らかに「南京占領後」についての証言である。

"長谷川秋広上等兵の私家版『戦火の揚子江を行く』より引用

支那軍(不逞支那人)による南京郊外・農村部での食糧掠奪と殺害
日本軍の南京占領後も支那の盗賊は、
南京の郊外や農村で食糧などを強奪し、殺人までも行なった。
日本軍はちゃんとカネを払って調達したが、
支那軍・不逞支那人はカネを払わず、殺して食糧等を奪った。

明らかに「南京占領後」についての証言である。

■日本軍は金を払った
1月25日(曇)きょうは、発電所に2名の使役をだす。
分隊は正門から約2キロの部落へ、野菜と食糧の徴発に行った。
しかし、軍票がないので、日本円で払うと、土民は喜び、
鶏卵まで加えてくれた」(46頁)
2月6日(晴後曇、時々小雪) 分隊の何名かを残して徴発に行く。
土民も段々好意を持つようになった。
軍票がないので、幾らかの日本銭を与えると
『謝謝』と笑顔で送ってくれる。」(49頁)
4月5日(晴) きょうは勤務はない。
昨日のこと(注:松江付近における敵の急襲)もあるので、
いつ非常出勤があるかも知れない。
野菜不足のため、城外に徴発に行く。
農民は、我々がいつも金を与える関係で喜んで野菜を売ってくれる。
またわれわれのためにすこし備蓄しておいてくれるらしい。」(72頁)"

1月以降の記述だから、明らかに「南京占領後」についての証言である。

http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/jintyu/jintyu6.html
"食糧が極端に不足して,「徴発」しながら進軍したのかと思っていたら,12月4日泗州で「今夕明日三食分ノ飯盒炊事ヲナシ置クヘシ」, 12月8日「建平にて糧秣の支給を受け」とある。ここで,4食分の飯盒炊事を用意している。 9日の東覇では,「醤油味噌砂糖衛生材料煙草を受領」「隊全員に砂糖湯を戴く」とある。
 12日初めて「徴発」の記載がある。りつ(さんずいに栗)水には6日間滞在する。「第一分隊第四班及第二分隊第四班ハ昼間衛兵舎ヲ除キ各徴発任務ニ服ス」とある。後の記述でこれまでなかった「牛飼当番」というのが出てくるから,付近の村から牛を徴発したと思われる。

これは南京侵攻時の史料だが、どこの誰が書いたのか日記なのか、提示がない(笑)

※青狐注 これは「第五師団 第一建築輸卒隊」の陣中日誌。
名前からわかるように、特殊な任務を受け持つ工兵隊である。第十軍に編成されていた。
一般的にいって、工兵隊は「徴発」に携わるということはない(他の部隊に先んじて道を進み、もっとも危険な任務に就いているのだから)
12月4日、8日に食事を支給されているが、これが他部隊で「徴発」で得た食糧なのか、最初から持参していた食糧なのかは不明。

http://www10.ocn.ne.jp/~war/kome.htm
"(12月15日)我が第十六師団の入城式を挙行す、師団が将来城内の警備に当たるのだとゆふものがある。終つて冷酒乾杯。
各師団其他種々雑多の各部隊が既に入城していて、街頭には先にも云つた如く兵隊で溢れ、特務兵なんかには如何はしき(いかがわしき?)服装の者が多い、戦闘後軍紀風紀の頽敗(頽廃?)を防ぐため指揮官がしつかりしないと憂うべき事故が頻発する。
城内に於て百万俵以上の南京米を押収する、この米の有る間は後方から精米は補給しないとゆふ、聊か(いささか)癪だが仕方が無い、因に南京米はぼろぼろで飯盒の中から箸では掬へない。
(第十六師団佐々木到一少将の日記・・・・偕行社「南京戦史資料集」P-380)"


12月15日という日付から、明らかに南京陥落後の記述。


というわけで、tdamさんの提示した史料・証言、最初の2つを除いて南京侵攻時の史料・証言ではない。
なんでこういう悪質なことをするのだろう?


その後もsutehunさんに対して

tdam 2011/01/11 18:01

軍票交換所が設置されていたことは以下の資料から明らかです。
http://kknanking.web.infoseek.co.jp/sougou/tokumu/tokumu.htm

と言い放ち、

sutehun 2011/01/11 18:55

その持ち出した史料、一月五日(これたぶん南京特務とかって書いてあるから1938年だよね)に軍票交換所を設置したって読めるんだけど。

と指摘される始末。
38年1月以降、つまり南京陥落後の特務機関資料なのである。

どうしてこういう悪質なことをするのか。
考えられる可能性は2つで、

1;南京侵攻時がいつからいつまでなのか知っていて、悪意をもって「侵攻時ではない」史料や証言をいっぱい並べた。

2;南京侵攻時がいつからいつまでなのか理解しておらず、それゆえ「侵攻時ではない」史料や証言をいっぱい並べた。

1の場合は確信犯的「議論破壊」なので、これ以上議論に加わるべきではない。
2の場合は「南京事件の初歩的知識」を知らないまま議論していることになるわけで、「南京事件」をめぐる踏み込んだ議論に加わる資格がない。