北村稔氏もついにデマゴーグの道に

  北村稔氏(『「南京事件」の探究』、文春新書)は、東中野修道氏とは一線を画している研究者だが、先月、東京の外国人特派員協会で行った講演では、かなり悪質なトリックを行っていることを知った。
以下、「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」の平成19年(2007年) 4月6日(金曜日)通巻第1763号の西法太郎氏のレポートより北村氏の講演部分を転載する。

大虐殺とよべるものはなかった。あれは南京の政治である」
北村稔教授が外国人特派員協会で客観的な論考を講演

日本外国特派員協会で、立命館大学教授の北村稔氏が、新著『The Politics of Nanjing 』(「南京」の政治学)について会見をしました。

北村氏の新著は、5年前に出版された『「南京事件」の探求 ? その実像を求めて』の英訳本で、翻訳者ハル・ゴールド氏も臨席していました。

同書の主題は、先の大戦中の1937年末から38年にかけて南京に進駐した日本軍によるマサクル(虐殺)があったどうかの検証です。

同書の結論は、モ虐殺と呼べる事実モはなかったというものです。

北村氏の英語のスピーチは以下のようなものでした。
1937年〜38年にかけての日本軍の南京占領下の状況をマサクル(虐殺)と呼ぶべきか、ディスオーダー(混乱)と云うべきかに焦点を当てて論じたのが、私の英語の新著『The Politics of Nanjing 』である。

内容は5年前に文芸春秋新書から出した『「南京事件」の探求 ? その実像を求めて』と90%は同じである。 この5年の間に見出された事柄や所謂百人斬り事件についての新事実は脚注の形で入れ込んだ。

南京事件」についての中国側の主張は一致していて、30万人虐殺説である。日本側はそれを真っ向から否定している。


特に問題なのは以下のくだりからだ。(太字は青狐による)

新著は中立者の立場から歴史を再現し検証したものである。
新著が依拠したのは、南京と東京で戦後行われた戦争犯罪人裁判で下された判決を形成したアメリカ人、中国人、欧州人の証言や彼らが提示した証拠である。

中立性を自らアピールしているのだが…

日本人の証言は採用しなかった。 日本人の調査によってもたらされた証拠も採用しなかった。 もしこれらを採用したなら、日本の立場を擁護する政治的偏向の書であるとの非難を惹起し、 人々は私の調査に関心を寄せないだろうと考えたからである。


出た出た、日本軍史料隠し。当ブログでは、昨年夏から一貫して「否定派のアキレス腱は日本軍史料」と述べてきたわけだが、北村氏も日本軍史料を無視する、という手法をとってきたわけだ。
こうやって北村氏は、以下のような日本軍史料を分析の対象から排斥した。この時点で、北村氏は東中野氏と同じデマゴーグの道を歩んでしまった、というしかないだろう。

補足すると、上記のレトリックはあまりに稚拙である。「中立者の立場」なら、南京事件に関するアメリカ人、中国人、欧州人、日本人の証言や史料を参照するのが当然である。そこから日本人証言・史料だけを除外した時点で、「中立性」を標榜するのは整合性を欠くはずだから。
しかし、聴衆の外国人特派員が日本軍史料に触れる機会が稀であるだろうことを考えると、このレトリックは相当悪質である。

以下講演内容の紹介が続くが、今回は論点指摘にとどめる。どうせですから、みんなでゆっくり検証しましょう。

それらの証言・証拠を分類し、ひとつひとつが生み出された由来・背景・事情を鑑定し、その信頼度を確認した。 一つ一つの証言が証人によって実際に目撃されたものかを詳細に調べた。

これらを吟味する作業は、社会的な常識、コモンセンスを以てした。 モコモンセンスモを以って、所与の状況下での人々の行動の質と規模の蓋然性について合理的判断を下した。 こうしてこそ、読者の理解を得ることになるからである。

多様な証拠や証言について、判断力を具えた人々の大多数が、矛盾がない妥当であると思うことを判定の拠りどころとした。採用した審査員団のリーダーにも、私(北村)が学術的な調査・手法を通じて集めた発見物を提示し、コモンセンスを以って合理的に判断してもらった。

先述の「中立的立場」という概念の恣意的運用を参照する限り、ここでの「コモンセンス」という概念にも胡散臭さを感じるのは得ないと思う。

以上の手法から到達した結論は、混乱(コンフージョン)や無秩序(ディスオーダー)は存在したと云えるが、決して虐殺(マサクル)はなかったというものだ。戦闘員による計画的な、ナチがユダヤ人にしたような大虐殺は日本軍占領下の南京ではなかった。

「ナチがユダヤ人にしたような大虐殺の不在」=「虐殺の不在」という考えは粗雑にすぎるのではないか。
この問題は、次の段落を読むとより明確になる。

秩序の乱れとは、法的な手続きを経ない戦争犯罪人(P.O.W)の処刑である。これは絶対的な食物不足から大量のP.O.W(後の質疑で1万人と北村氏は記者に応えていた)の処刑が行われた。

おやおや、正規兵の捕虜虐殺は「戦争犯罪人」の処刑とは別に考えるべき事項のはずだが、完全無視か?
捕虜虐殺は、基本的には日本軍史料にしか掲載されていない事項である(欧米人史料・証言にはない)。「日本軍史料の無視」という手法の問題が、如実に現れている。

中国人は南京市内でなく、多くはその外で死んだ。 大量の中国人市民が中国人兵隊と混在し、南京から避難しようとした混乱があった。その避難民を日本海軍の爆撃機は攻撃し、多くの中国人は揚子江のえん堤周辺で命を失った。

この悲劇の一因は、南京を守っていた中国兵が、避難に欠かせない渡河船・艀をすべて焼いて沈めたことにある。

避難途中の市民が日本軍によって殺されたことは、東中野氏においては基本的に無視されているが、北村氏は事実として認めているようだ。ただしこれを「虐殺」と解釈するかしないか、ということは論点になる。

国民党軍の南京司令官唐生智は最後の一兵まで日本軍と闘うと宣言して、日本軍の降伏勧告を拒絶した。

しかし唐生智は 南京陥落の一日前に自分の逃亡用に確保していた蒸気船に乗って逃げ、1万人近くの兵を置き去りにした。 これは蒋介石の命令によりなされた。 残された中国軍から統率は失われ、指揮命令系統は絶たれ、彼らは絶望的な混乱に陥った。

置き去りにした兵が「1万」とする根拠がわからない。日本軍史料を見る限り、そんな少ないとは思えない。

ジョン・ラーべは南京の守護者・擁護者として、アイリス・チャン本に登場する有名なドイツ人である。 彼は、ドイツ企業シーメンスの南京代表で、ナチであった。

蒋介石はドイツ・ナチと友好関係を結んでおり、ナチから軍事顧問団を迎え、シーメンスから大量の兵器や戦闘用備品を購入していた。

シーメンスから兵器や戦闘用備品を購入していた? 史料的根拠はあるのだろうか。ドイツで兵器輸出を独占的に司っていたのは国営企業のHAPROだったはず。
詳しくはゆうさんのhttp://www.geocities.jp/yu77799/rabe3.html参照。

ラーベやドイツ軍事顧問団は、他の西欧人とともに南京陥落後も市内に留まり、安全区に国際コミティを形成した。 ここに逃げ込んできた避難民に水や食料を供給していた。

一方、親日中国人層により形成された安全政府コミティもあって、日本軍・日本領事館はこれをサポートした。

日本軍は安全政府コミティに施政権を渡して、占領を解きたかったが、彼らが自立できず叶わなかった。 これは早急にイラク人に施政権を渡して、そこから引き上げたい今のアメリカ軍と同様であった。米・露大使館含め現地に留まった西欧人は慈善行為に努めただけでなく、南京市内外で生起していた状況をよくリポートした。これらのリポートは、都度日本領事館にも渡された。


この段落を読んで絶句した。
…確か北村氏は、中国人と欧米人の証言・証拠のみで立論していたはずだ。では、中国人・欧米人証言・史料のどこに「日本軍は安全政府コミティに施政権を渡して、占領を解きたかった」とか「が、彼らが自立できず叶わなかった」ことを示すものがあったというのか?

蒋介石の国民党政府はリポートを集成し、内容を確認して、南京陥落から2年後の1939年、上海と香港で南京安全区のドキュメント資料として出版した。 ここにその本を持参したが、その中のエピソードをふたつ紹介する。

ひとつは、1938年1月初め、日本軍が米を安全区外の中国人に配給していること。
もうひとつは、日本軍の援助で行われた米と小麦粉の配給についてで、ラーベから日本領事館の福田参事への手紙がそのことに触れている。

「1938年1月8日、安全政府コミティにより1,250袋の米がただで配られ、10,000袋の米が売られることになった。 9日それらの米を運んでくれと頼まれトラック5台を手配して、10日に実施されるとそれらは瞬く間に無くなった。
日本軍が同地区で登録した10歳以下の幼少児を除く16万人の人口から推して、他地区の人口と併せると南京には25から30万人がいると推計される。

そうすると1日に必要な米の量は2千反になる。 アドバイスや援助が必要なら遠慮なく申し出て欲しい」とラーベの手紙は書かれている。

このことは当時の南京で、西欧人の国際コミティと中国人の安全政府コミティと日本軍・政府が緊密な協力関係を築いていたことを示している。大虐殺があったという主張と著しく矛盾する第三者である西欧人(ジョン・ラーベ)の残した証拠である。

うんざり。
1月8日前後に日本軍が米を配給したことはよく知られている。
問題はその米は、もともと何処にあった米かということなんですが。確か、日本軍が内地から、あるいは上海から持参してきた米ではなく、もともと国際委が南京市当局から預かっていて、日本軍に没収された米ではなかったっけ?(すみません。史料的根拠はこれから探しますので現時点では保留)。
それはさておいても、ここから「緊密な協力関係」が読み取れ、それゆえ「大虐殺があったという主張と著しく矛盾」するという考察は成り立つのだろうか。

正直、この程度の「素人騙し」の英語本、実証的な研究者の楊大慶氏(アメリカ・ジョージウィンストン大準教授)に検証されたらひとたまりもない気がする。