「南京事件像」の矮小化/情状酌量論にどう向きあうか

http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20080106/p1の補足。

実は、解釈否定論者が打ち出す南京事件像の多くは「対ゲリラ戦での殺戮事件」である。このような事件像を大衆的にリリースしたのが、小林よしのり戦争論』である。小林は、「殺された中国兵=掠奪を働く暴徒、殺した日本軍=南京に平和をもたらした平定者」という構図を打ち出して、この殺戮を正義と見なした。しかしこの二分論を提示する際、小林がアメリカ大使館「エスピー報告」の内容をトリミングして引用していたのはよく知られている(http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060818などを参照)。中国兵は掠奪を働いたが、日本兵はそれ以上に暴徒だったことを隠蔽して、「日本軍=南京に平和をもたらした平定者」だったかのような印象操作を行ったのだ。


話を戻すと、「対ゲリラ戦で発生した事件」像のもとに、合法的殺害論を展開したのが東中野修道の「便衣兵処刑合法論」だった。小林「戦争論」もこの事件像の影響を受けている。
この東中野の主張とその問題点は、2つに整理することができる。
・事件像そのものを「対ゲリラ戦」に矮小化
・殺害合法論の誤り(http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060815参照)


特筆すべきは、土台の部分で「事件像の矮小化」が行われていることだ。
東中野の合法的殺害論は秦郁彦からも批判を受け、吉田裕との議論によって破綻するに至り(議論の経緯は『現代歴史学南京事件』吉田論文に詳しい)、大きな支持は得られていない。
しかし土台の部分は残った。「対ゲリラ戦」に矮小化された事件像は、ある程度の大衆的な浸透を得るに至っている。(もちろん、新書を2冊も読めば、その矮小化された事件像など吹っ飛んでしまうのだが)


その残った土台の上に、(殺害合法論にとって替わって)北村稔の「虐殺はなかった、混乱の中の殺戮があった」という解釈否定論や、「残敵掃討は正当だが、行き過ぎがあった」という情状酌量論が入り込む余地がある。「対ゲリラ戦はたいへんだ、誤認殺害もあったろう、可哀想なことをした」という風に。


これらを踏まえるうえで、(自分の)課題を考えてみた。それは2点に整理される。

(1)「南京事件像」矮小化への批判とカウンター言説。
南京事件は「対ゲリラ戦で発生した事件」ではないことを示す。
先日の「南京事件は「他者恐怖」が生み出した事件ではない」http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20080106は、そういう試みだが、より一層のバージョンアップが必要だろう。

(2)解釈否定論・情状酌量論そのものの検討、批判。
「殺害合法論」への批判は既に充分だろう。いま自分の中にあるのは、「そもそも残敵掃討って必要だったの?」「そもそも南京占領って政治的に必要だったの?」「入城式なんて必要だったの?」という問題意識だ。行き過ぎとかそういう以前に、南京占領も、入城式も、現地日本軍の独断と自己満足にすぎないんじゃないの?という疑問である。

新書の2冊も読まない人というのは実際にいるわけだし、そういう人にどうプレゼンテーションするか、今年もぼちぼち考えます。