(分析)茂木氏の2月2日〜4日言説とその問題点・3

前回エントリの続きです。
さて茂木さんは、当初27日エントリではこう述べていました。

世田谷区ほどの広さの南京に約20万人の市民が日本占領時に残されていた。そのほとんど大部分(99%?)は唐生智防衛司令官の命令で「安全区」に集められていたのである。

しかし2日エントリでは以下のように発言していました。ただし、これは「東中野派」の基本認識=城外無人説とは矛盾するものです。(当ブログの1月27日エントリの内容を読んで、先手を打ったのかもしれません)

郊外でかなり人がいたのは、下関とその北の宝塔橋街であるが、そこで住民虐殺など起こっていないばかりか、宝塔橋街では駆逐艦比良艦長土井中佐が、住民に食料被服等を上海から調達して供給し、紅卍会支部長陳漢林視から感謝状をもらっているほどである。(その資料現存)何が虐殺だというのだ!

しかし、この認識は東中野派の基本認識とは矛盾します。そこで私が以下の質問をしてみると、

「ほとんど大部分(99%?)は安全区」という発言と、「かなり人がいたのは下関とその北の宝塔橋街」という発言は両立するのですか。99%が安全区ということは、「下関とその北の宝塔橋街」には約2000人(=1%)以下しか居なかった、という認識でしょうか。

それからこれは重要な論点ですが、「かなり人がいたのは下関とその北の宝塔橋街」ということは、茂木さんは「安全区以外は無人地帯」説には立っていない、ということでよろしいですね。

さらに重要な論点ですが、安全区以外無人説でないということは、「安全区以外で殺害がほとんど行われなかった」という説に茂木さんは立っておられる、ということですね。
では、「かなり人がいた」と茂木さんが言われる「下関」で「住民虐殺など起こっていない」と断定される根拠は何でしょうか。

これに対し(茂木ブログ)4日エントリでは、茂木さんは「下関ほとんど無人説」「城外ほとんど無人説」に軌道修正します。二転三転しています。

下関について虐殺はなかったのかという点について。郊外で住民がかなりいたのは下関とその北の宝塔橋街くらい、と書いたのは不正確であった。確かめてみたところ下関は、マギーが家族への手紙に中で書いているように、中国軍の清野作戦によってほとんど焼き払われてしまって、住民はほとんどいなかった。ここで脱出を図る中国兵が多数殲滅されたことは事実だが、これは虐殺でもなんでもない。

しかし、下関は本当に「完全に焼け野原」になり「無人地帯」になったのでしょうか。
アメリカ大使館報告12月8日報告には、以下の記述があります。

47D南京の状況1937年12月8日
ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館
第1015号、12月8日午前10時
1 市長はすでに去ったと確信される。数日前から我々のところに地方当局との折衝を援助するといってやってきた二人の下級外交部職員も、今はどこかへ消えてしまったようだ。邑江門を通って江岸に出て行くのは今も容易であるが、中国人はそこから城内に入ることは許されていない。昨夜警官が、城壁の外側 下関地区の家々を一軒一軒回って、長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。

ここでは重要な点が2つあります。
邑江門を通って江岸に出て行くのは今も容易であるが、中国人はそこから城内に入ることは許されていない。昨夜警官が、城壁の外側 下関地区の家々を一軒一軒回って

この史料によると、8日の時点では下関に家屋が残っていたようです。
さらに重要なことは、9日以降家屋を失った下関の住民は、城内に入れない(したがって安全区にも入れない)、ということです。

なお9日の時点では、「下関の広い範囲」で焼き払いが行われたという記述があります。

50D 南京のアメリカ人の保護
受信:1937年12月9日午後10時
我々が邑江門を通過した時、門を土嚢で封鎖する作業が進められておりまた城外の下関の広い範囲と城壁の近くが焼き払われていた。

11日にも下関で火災が発生したという記述があります。ただこれが中国軍によるものか、日本軍の空襲や砲撃によるものかは不明です。

53D 南京の状況−12月11日
受信:1937年12月11日午後8時9分
ワシントン国務長官
第1036号 12月11日午後6時
2、今日の午後、下関地区に新しい火災が発生し、北に向かって延焼している。昨夜の火事は川下に向かったため、浦口のフェリー客船用の桟橋は今日のところまでそのまま残っている。浦口の主要な建物には、今日の爆撃による被害は無かった模様である。

こうやって下関の家屋も焼き払いの対象になっていきますが、下関の全ての家屋が焼き払われたか否かは、この史料からは不明です。(なお茂木さんの提示した「マギーの手紙」にも書かれていません。12日現在、文章入力中)
より重要なことは、下関に8日まで留まっていた住民は、安全区には入れない、ということです。対岸にいく、城外の他の地域(宝塔橋街など)に移動する、この2つの選択肢しかありません。そして何人が対岸への避難に成功し、何人が宝塔橋街等への避難に成功し、何人がそれらへの避難を成し遂げることができずに日本軍に捕捉されたり殺されたか、これらを判断する史料はありません。*1

このように、茂木氏も「避難中の民間人」の存在を無視して下関無人説を唱えていたわけです。
補足すると、宝塔橋街の避難・残留民が12月12日時点で何人なのか、その民間人の何人が(土井中佐が訪れた)14日までの間に捕捉・殺害されたのか、それとも12日時点の避難・残留民の全員が生存したのか、これらも実はわかっていません。

茂木氏は、実は南京事件についてあまり基礎知識を持っていなかった方のようなので、一旦東中野派の基本認識から逸脱する、というハプニングが起こったりして、個人的には面白かった議論でした。

時間がないのでとりあえずupします(休日はPCから離れていました)。前回の「2」とともに、明日以降に多少微修正、補足があるかもしれません。

*1:なお東中野派以外の人で、「避難完了説」を唱える人もいますが、私には主観的願望を超えるものとは思えませんでした。これについては機会を改めてエントリ予定ですが、とりあえず
Apes! Not Monkeys!さんの「野良猫氏の語ったこと、語らなかったこと」での青狐コメント(12.17.05 - 2:37 am)をご参照下さい。