[社会現象としての大虐殺否定派]【レジュメ転載】南京事件における否定派の「無人トリック」

お久しぶりです。
先日、某所で発表したレジュメを転載します。



●はじめに…まかりとおる印象操作

 日本人の多くは「南京事件」の空間範囲を知らない。また、当時の南京市の空間範囲もしらない。この2点への無知につけこみ、否定派は「30万大虐殺なんてありえない」という印象操作を執拗に行い続けている。

 比較的大部数を誇る雑誌で、そのような印象操作が行われた一例として、週刊誌「SPA」2005年3月8日号の巻頭頁における、勝谷誠彦氏の「大地震南京事件」と題したコラムがある。 リードには「津波の犠牲者30万人。同数の遺体を南京市内に埋めたらどうなるか?」とあり、このコラムの意図をはっきり読み取ることができる。(注;これはスマトラ沖地震による大津波事件の直後に発表された)

「南京市の城壁は総延長34キロ。数キロ四方の街の中にスマトラ沖地震で生じた遺体全てを入れたらどうなるか。それこそ枡に遺体を盛ったような状態であり、それが事実であれば前代未聞の光景としてその様子はもっと世上に流布したであろう。
以上、遠慮がちに言ってみた。読者諸兄の想像力を喚起するためである。」

 勝谷氏のこの記事は、印象操作としても質が低い。
 これは旧東京市内で30万人死んだとして、山手線の中に30万人遺体を入れたらどうなる?と述べているのに近い。東京ドームの観客席だけで約5万人は収容できる。グラウンドを含めれば、東京ドームの内部には約10万人が収容可能だろう。
しかしこの程度の劣悪な印象操作が、比較的大部数を誇る週刊誌の巻頭に掲載されるという現状が、確かに存在する。


1●「安全区以外は無人」だから「安全区以外で虐殺は起こりえない」説と、その破綻

 勝谷氏のようなレベルの素人騙しが横行するいっぽうで、いまや否定派の中心的人物となった東中野修道氏の主張においても、南京事件の空間操作トリックは重要な位置を持っている。

東中野氏の「市民殺害はなかった」説は、大まかにいうと次の二本の柱で構成されている。(A、Bの符号は青狐による)

A;安全区以外での市民殺害はなかった。安全区以外に市民は居なかったからだ。
B;安全区内での市民殺害は1件しか目撃されていない。


このうち、上記Bの「1件しか目撃されていない」というデマゴギーについては、別個に批判を加えることとし、本考察では触れない。
ここでは上記Aについて検討することとする。

●その根拠
 東中野氏の著作の中でもっとも多くの発行部数を記録した『南京事件証拠写真」を検証する』(草思社、2005年)から、彼の人口分布に関する認識を示すものを引用する。

 次頁の「南京及附近要図」をご覧いただきたい。中国の街の特徴は数千年の前から城壁と城門であった。南京も街全体が巨大な「壁」に囲まれていた。南京戦にさいしては、これが図にあるように城内の安全地帯(A)、安全地帯以外の城内(B)、城外(C)に分けられることとなった。
(中略)
 結局、南京に残ったのは、旅費などがないため逃げたくとも逃げられないという「貧者の中の貧者」(ラーベ)であった。また、家を焼かれた人びと、激戦の予想された城門付近の人びとは、城内に入った。十一月二十八日現在、王固磐警察庁長官が発表したように、その数は「二十万」であった。
(青狐注;王が「発表した」という表現は不適切であり、東中野氏はこういう細かいところでも印象操作を行っている。『南京の真実』文庫版77頁参照)

 十一月三十日、金陵女子大学学科長のアメリカ人、ヴォートリンは、記者会見場で、ジョン・ラーベやジョージ・フィッチ師が「城内に約二十万残留している」と語っているにを聞いて、これを日記に記している。同じく三十日、国際委員会は安全地帯を開設すれば「全部で約二十万の人々を世話する必要がある」と記している。
十二月八日、前述の安全地帯避難命令にしたがって、市民は城内の安全地帯に集結した。そして陥落直前の十二月十二日、国際委員会は休戦提案のなかに南京の「二十万市民」と記した。つまり、南京陥落直前には二十万の南京市民が城内に残ったと認識されていたのである。
 ちなみに、陥落前は、城内の安全地帯(A)に南京市民が、安全地帯以外の城内(B)に中国兵が、城外(C)に中国兵と日本兵がいたという分布になる。
(以上34〜35頁)

 ここには(ページ数の都合もあるだろうが)「前述の安全地帯避難命令にしたがって、市民は城内の安全地帯に避難していた」という史料的根拠は示されていない。
 この点について、おそらく東中野氏が根拠としていると思われるのは、当時の国際委員会メンバーのの認識であろう。

 その上でなお、このような「安全地帯以外の城内(B)に中国兵が、城外(C)に中国兵と日本兵がいたという分布」説に対して反論を加えることは、難しい作業ではない。
 以下に反論を行う。

●この説を覆す日本側証言

 この東中野氏の「安全区以外無人説」に対する反証材料は、同じ否定派の田中正明氏の『南京事件の総括』の中に見いだすことができる。
同書から引用する。

大量の戦死者を出した激戦地下関(シャーカン)から北へ1.8キロの所に宝塔橋街(ほうとうきょうがい)という町がある。
 この街の保国寺には、6、7千人の難民が蝟集(いしゅう)していた。
 13日には旗艦安宅(あたか・司令官近藤英次郎少将)を先頭に第11戦隊は、劉子江陣地からの猛射を反撃しつつ、閉塞線を突破して、下関に向かった。
 保津、勢多を前衛とし、江風、涼風、比良、安宅等主力がこれに続いた。
 江上、江岸は敗走する敵の舟艇や筏(いかだ)で充満していた。
 各艦はこれに猛攻撃を加えた。14日、砲艦比良は下関下流1浬(カイリ)の中興碼頭(まとう)に停泊し、宝塔橋街の状況調査に任じた。
 ここは軍需倉庫の所在地で、引き込み線があり、兵器、食糧、被服等軍需消耗品が蓄積され、付近一帯は地下壕もあり、敗残兵が出没し、治安も乱れ危険きわまりない状態であった。
 比良の艦長土井申二中佐(千葉県松戸市在住)は自ら願い出て該地区の整備確保に任じた。
 この町の中ごろに紅卍字会の前記の保国寺難民区があり、数千人の難民と約2万人の市民は不安に脅えていた。土井中佐はまず、下関との境の宝塔橋を改修し、あるだけの食糧や被服を給与して民心の安定をはかった。


 ここでは12月14日以降、宝塔端街だけで「数千人の難民と約2万人の市民」が居たことが記述されている。ただ、「数千人」「約2万人」という数字の根拠は示されていない(土井申二中佐からの聞き取りを根拠にしている可能性がある)。
 しかし、この証言から、ラーベたちの1937年12月13日時点の人口認識が正しくなかったことを指摘することはできるだろう。

 東中野氏が「安全区以外無人説」を主張し続けるならば、最低限この田中氏の認識が誤りであることを示す必要がある。しかし、東中野氏からはそのような指摘は行われていない。
 

2●「安全区以外の残留民は全員生存」だから「安全区外での虐殺はなかった」説と、その破綻

 東中野氏が黙して答えないこの問題に関して、ネット上では、匿名の人間によって反論が行われている。

●その根拠
その要旨は、「土井中佐の証言によれば、宝塔橋街では虐殺は行われなかった。だから城外では大虐殺は起こっていない」というものである。

●反論
 しかしこの主張に対しては、土井が宝塔橋街に初めて足を踏み入れたのが12月14日であることによって、容易にその根拠薄弱さを指摘できる。
 また、土井が目撃できたのは、安全区以外の膨大な空間のうち「宝塔橋街」のみであって、土井証言から「安全区以外の全ての地区の虐殺」を否定することはできない。
 とりわけ、笠原十九司氏が『南京事件』(岩波新書)で紹介した、避難途中の難民に対する大規模な殺害(157〜161ページ)を否定するに足る情報は、土井証言の中には示されていない。

 つまり、土井証言から「避難途中の難民が12月13日までに殺された可能性」を否定することは不可能なのである。

3●「避難希望者は全て避難完了した」から「安全区外での虐殺はなかった」説と、その破綻

 これに対し、別の史料を根拠に、「避難途中の難民への殺害はなかった」「だから安全区外への虐殺はなかった」という主張がネット上で行われている。これは、匿名の研究者「グース」氏によって主張され、アマチュア否定論者の中では高い支持を受けている。
http://nankinrein.hp.infoseek.co.jp/page009.html

この主張の概要は「避難希望者は全て避難完了したと思われる」ので、「避難希望者は殺害されていない」というものである。

●その根拠

グース氏はその根拠として、「 アメリカ大使館報告」に「 警察官が避難完了と思われ る記述がある」「12月11日以降、避難民の記述がない」 ことを提示している。

元史料の アメリカ大使館報告を引用する。

受信:1937年12月11日午後8時9分
ワシントン国務長官
第1036号 12月11日午後6時

(略)
3、今日の午後、市外との陸上 電話の回線が 破壊された。電気と水道の業務は機能するのを止めていると報告さ れている。
 今日の午後、パナイ号が移動する前に我々は、 警察官が川岸で渡江して避難する準備をしているのを見た。その 後、数百人の警察官が同じ 目的で下関区へなだれ込むのを目撃したから、もはや市内に警察官はいないのではないかと思われる。
(『南京事件資料集』アメリカ関係資料編、青木書店)


●根拠の薄弱性

たったこれだけの記述だが、この史料に対してグース氏は以下のような解釈を行っている。
「警察官が渡河を企図している描写はありますが、渡河を待つ避難民の記述がないということから、すでに避難民の渡河は終了していたと考えてよいと思われます。

この短い報告に「避難民の記述」がないから「避難民の渡河が終了していた」というもので、これは明らかに根拠薄弱である。
報告からは、12月11日(陥落の前々日)に 警察官が対岸への避難を準備していた、ということしかわからない。警察官の避難と 民間人の避難は独立した事象であり、この短い記述からは 民間人避難の進行状況は読み取れきれないはずだ。しかし、グース氏はここから「すでに避難民の渡河は終了していた」と解釈する。

(この解釈は分析というよりは願望の域にあるのだが、否定論者の中では充分な説得力をもって受容されているようだ)

どうやらグース氏は、民間人の避難完了の「後に」 警察官が避難を始めた、という前提で自説を組み立てている。しかしその前提自体が、そもそもグース氏の「思いこみ 」「願望」の次元に属するものである。
その機序を立証する史料的根拠をグース氏は提示できていない。

 実際問題として、いざというとき警察官は 民間人をさしおいて独自に避難してしまうことはありえる。平気で清野作戦を実行してしまう当時の中華民国の官憲なら、なおさらその可能性は否定できない。
どうやらグース氏は、民間人の避難完了の「後に」 警察官が避難を始めた、という前提を立てること自体に、大きな無理がある。

 終戦直後の満州における関東軍・官憲の行動も、格好の参照例となるだろう。


●この根拠を覆す史料・証言

 まず、日本軍側には以下のような証言がある。

 海軍第十一戦隊の保津、勢多、江風、 涼風、比良、安宅などの艦艇は 1937年12月13日午後に 揚子江上にて 南京包囲戦に参加した。「保津」に乗艦していた橋本以行(終戦時中佐)は 12月13日の江上攻撃について以下のような証言を残している。
「証言による『 南京戦史』(10)」より引用する。



「午後1時38分、保津が南京下流の閉塞線を 突破した頃には、既に渡江していた小舟の数は減りつつあるように見受けたが、今度は桟橋用の箱舟や筏が現れた。もう乗る舟がなくなったのであろう。先頭を進むわが「保津」では主計兵、機関兵まで駆り出し、艦砲、機銃はもちろん、小銃まで持ち出して前後左右に射ちまくった。」
「最初出会った小舟の群は、 難民のようであったので射ち払わずに進んだが、群の中の近くの一隻から盛んに手を振る者がおる。双眼鏡で見ると、日本陸軍兵のようなカーキ色の服を着て、戦闘帽を被った姿である。」


この証言に基づく限り、12月13日時点で、橋本は避難途中の難民がいたと認識していた。

さらに、熊本日日新聞の編纂による、第六師団の戦史『熊本兵団戦史』には、より直接的な記述が存在する。

 のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。
 これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている。
(128〜129頁)

上のように、難民を巻き添え殺害したことが明記されている。
ちなみに、難民殺害を正当化する戦時国際法は、当時も存在しないはずである。

そして、被害側の証言には、12月13日時点の城外に、避難希望の難民が多くいたというものが多数存在するが、ここでは紹介を省く。

●補足

 本考察においては、東中野氏のいうとことろの「安全地帯以外の城内」が無人だったという主張に対する反論は取り上げなかったが、補足として、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者の記事を引用する。

一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われるが、その死傷者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。
(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p423)