(分析)茂木氏の2月2日〜4日言説とその問題点・2

昨日のエントリの続きです。
今日は主に「城外無人説」をめぐる議論を振り返ります。


東中野派の認識の要としての「城外無人説」

まず、「東中野派」の見解の基本構成を再確認すると、以下のようなものです。

1;安全区以外(城外+安全区以外の城内)は無人地帯。人がいないのに虐殺が起こるはずがない。

1-1城外は、中国の清野作戦で焼け野原と化した。だから住民はいない。

1-2城内の住民は全て安全区に避難した。

1-3安全区以外の城内は無人地帯であった。

2;安全区には20万人の残留民が居たが、虐殺はほとんど起きなかった。

2-1「南京安全地帯の記録」には少数の虐殺事例しか掲載されていない

2-2「南京安全地帯の記録」の内容は信用性を欠き、水増しの疑いがある。

2-3 日本軍は軍規厳正で、不法行為を多発するわけがない

2-4 中国軍は安全区内で不法行為を多発させていた。

このうち、まず重要な位置を占めるのは1ー1の「城外無人地帯説」です。というのは、中国の「30万人殺害説」は、大規模な虐殺はほとんど城外で起こったという説ですから、これに対し「無人地帯だから殺人など起こり得ない」と反論をおこなうことで「30万人説」の大部分を完全否定できるからです。


●「城外無人説」が無視している「避難途中の民間人」

しかし「東中野派」のこの認識には、大きな欠落があります。それは、「避難途中の民間人」の存在を全く無視していることです。
言うまでもありませんが、焼け野原になったからといって、即その空間が無人地帯になるわけではありません。家屋を焼かれた住民たちがその場を立ち去って、初めてその空間が無人地帯になるわけです。
しかし、南京戦で日本軍は東、南、西の三方から包囲戦をとっていましたから、家屋を失った城外の住民達は、城内に避難するか、揚子江を渡って北岸の浦口方面に避難するかの2つしか「避難」の選択肢がありません。安全区はともかく、揚子江には橋がかかっていませんから、対岸への避難を試みる民間人は船に乗って避難するしかありません(河といっても、日本海軍の砲艦が上海から入ってこれるほどの幅があります)。
渡江までの間は、避難途中の民間人は埠頭やその周囲の建造物(下関の建造物は完全に焼失したわけではありません。倉庫などは残っています)に待機していたと考えられます。

問題は、全ての(対岸への)避難希望者が、対岸へ避難することができたのか、現存の史料では確認できないということです。

●30万人は無事に避難できたのか

南京市当局の認識では、陥落20日前の時点の南京市の人口は50万でした。南京市政府(馬超俊市長)が国民党政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡(37年11月23日)には、こう書かれています。

「調査によれば本市の現在の人口は約五〇余万である。将来は、およそ二〇万人と予想される難民のための食糧送付が必要である。」(中国抗日戦争史学会編『南京大虐殺』)

この約50万のうち安全区に約20万が避難したとされていますが、問題は残りの30万が無事に揚子江を渡って浦口方面に避難できたのか、です。
この問題に答えを与える史料は、私の知る限りでは確認されていません。

しかも、最後に家屋の焼き払いが行われた南京城の北側(下関地区など)は、焼き払いが行われた時には城内の安全区への避難が困難になっていました。12月8日発信のアメリカ大使館の報告には次のような記述があります。

南京の状況1937年12月8日
海軍無線 HC EB 特殊グレイ暗号文電報
発信:南京 受信:1937年12月9日午前9時 ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館

第1015号、12月8日午前10時
1 市長はすでに去ったと確信される。数日前から我々のところに地方当局との折衝を援助するといってやってきた二人の下級外交部職員も、今はどこかへ消えてしまったようだ。邑江門を通って江岸に出て行くのは今も容易であるが、中国人はそこから城内に入ることは許されていない。昨夜警官が、城壁の外側 下関地区の家々を一軒一軒回って、長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。
(「南京事件資料集 アメリカ資料編」P95〜96)

この史料からわかることは2点で、ひとつは8日時点で下関にはまだ家があり人が住んでいること、もう1点は下関の残留民は安全区に入れず、揚子江を渡って対岸にいくしか避難の選択肢がなかった、ということです。

●避難途中の民が殺された可能性

そして中国側の「30万人殺害説」は、対岸への避難途中の民間人が、対岸へ敗走を試みる中国軍兵士といっしょくたに江上で殺され、あるいは捕獲された後殺された、という認識に立っています。

この認識をある程度裏付ける日本軍側の証言として、以下のようなものがあります。創価学会青年部反戦出版委員会編「揚子江が哭いている 熊本第六師団出兵の記録」所収の第六師団輜重第六連隊・高城守一氏の証言。

 翌十四日昼前頃、武器、糧秣補給の命が下り、糧秣補給のため、揚子江を登ってきた輸送船が着く下関の兵站まで、物資を取りに出発した。

 昨日までの砲声は絶え、揚子江には、数隻の輸送船が停泊し、護衛艦がゆるやかに、上下に航行していたが、この時、下関で目撃した惨状は、筆舌につくし難い。それは私の理解をはるかに越えたものであった。

 揚子江の流れの中に、川面に、民間人と思われる累々たる死体が浮かび、川の流れとともにゆっくりと流れていたのだ。

 そればかりか、波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体がゆらぎ、河岸には折り重なった死体が見わたす限り、累積していた。それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい数に思えた。

 南京から逃げ出した民間人、男、女、子供に対し、機関銃、小銃によって無差別な掃射、銃撃がなされ、大殺戮がくり拡げられたことを、死骸の状況が生々しく物語っていた。道筋に延々と連なる死体は、銃撃の後、折り重なるようにして倒れている死骸に対して、重油をまき散らし、火をつけたのであろうか。焼死体となって、民間人か中国軍兵士か、男性か女性かの区別さえもつかないような状態であった。焼死体の中には、子供に間違いないと思われる死体も、おびただしくあり、ほとんどが民間人に間違いないと思われた。私は、これほど悲惨な状況を見たことがない。大量に殺された跡をまにあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。
(「揚子江は哭いている」P94〜P96)
http://www.geocities.jp/yu77799/souka.html

同じく、第六師団歩兵第十三連隊・赤星義雄氏の証言。

揚子江岸は普通の波止場同様、船の発着場であったが、そのに立って揚子江の流れを見た時、何と、信じられないような光景が広がっていた。

 二千メートル、いやもっと広かったであろうか、その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ。見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。川の岸にも、そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた”イカダ”のように、ゆっくりと流れている。上流に目を移しても、死体の”山”はつづいていた。それは果てしなくつづいているように思えた。

 少なくみても五万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は”屍の河”と化していたのだ。
 このことについて私が聞いたのは、次のようなことであった。
 前日、南京城を撤退した何万人にのぼる中国軍と難民が、八キロほど先の揚子江流域の下関という港から、五十人乗りほどの渡し船にひしめきあい、向う岸へ逃げようとしていた。

 南京城攻略戦の真っ只中で、海軍は、大砲、機関銃を搭載して揚子江をさかのぼり、撤退する軍、難民の船を待ち伏せ、彼らの渡し船が、対岸に着く前に、砲門、銃口を全開し、いっせいに、射撃を開始した。轟音とともに、砲弾と銃弾を、雨あられと撃ちまくった。直撃弾をうけ、船もろともこっぱ微塵に破壊され、ことごとく撃沈された、と。

 私は、この話を聞いた時、心の中で、「なぜ関係のない人までも・・・」と思い、後でこれが”南京大虐殺”といわれるものの実態ではなかろうかと思った。
(「揚子江が哭いている」P29〜P30)
http://www.geocities.jp/yu77799/souka.html

もちろん死体数は証言者の「目分量」でしかありませんが、この証言は民間人が多数殺害されたことを述べているものです。
そして私は、この殺された民間人は、避難途中の民間人だったのではないかと推論しています。

…ここまででずいぶん長くなったので続きは次回エントリにて。
午前3時半up、夕方以降補足・脚注追加の可能性があります。