日本軍の給養体制の問題と「家を壊して薪にし、飯盒炊飯した」兵士たち

雨は降るし、飯盒炊事するにも薪はない。手当り次第に家を壊して焚く(1937年11月17日)

上は吉田裕「日本の軍隊」(岩波新書)174頁所収、歩兵第33聯隊(第十六師団、歩兵第30旅団傘下)の召集兵だった高島市良氏の日記の記述。
(「日中戦争従軍記、2001年、非売品。吉田裕「日本の軍隊」(岩波新書)174頁所収)なお1937年11月17日ということは、同師団が上海の北75キロに上陸した4日後、上海戦には実質的に参戦せず11月末から南京侵攻に向かっている。

「日本の軍隊」は軍隊の「食」の問題にも触れていて、欧米諸国が第一次大戦後に「炊さん車」、つまり給食車を導入したのに対し、日本軍が旧来の「飯盒炊飯」に頼り続けたことの弊害にも一節を割いている。
飯ごう炊飯、つまり兵士が戦闘や行軍の合間に「自炊」する方法では、まず炊飯するための水と燃料を兵士が調達しなければならない。適当な可燃物がない場合は現地の家や家財道具を略奪して火を起こさなければいけない。食料の持ち合わせがない場合は、米や野菜も略奪の対象になる。


この状態は、南京戦の後も改善されなかったようだ。高島氏は1938年9月21日の日記に以下のように記す。

扉や家具を壊せば、「良民が困る」と。それはそうだが、薪が無ければ飯が炊けず仕方がない。

ここにも「虐待の連鎖」がはっきり見てとれるわけだが、それにしてもこんな有様では当時の中国人の憎悪を引き出さないはずがない。