東中野氏の「素人騙し」メソッドについてのメモ

6月の「クッキーと紅茶と」は、東中野修道先生の特集でもしようかしら(笑)。
最新の雑誌記事を取り上げて、その手口を見てみようかと思います。

とりあえず、「東中野修道氏の手口」の主な特徴を確認すると…



●論証のデタラメさ
頻出するパターンとしては、

Aという史料を提示する

そのAという史料からはB1・B2・B3・B4…という可能性が考えられるのだが、なぜか根拠も無くB1以外の可能性を排除する

B1であろう」「B1に他ならない」「B1であるに違いない」と判断する

そのB1を根拠にC1、D1…と推論を進めて行く。
こうやって乏しい根拠から「…に違いない」という結論を導いていく。


ポイント;基礎知識の無い人は「Aという史料からはB1・B2・B3、B4…という可能性が考えられる」ことに思い至らない。
したがって、A→B1という論証が、たとえ無理無理のこじつけであっても受け入れてしまう。





●表現上のペテン行為

典型的なのが「国際委員会文書」の「日本軍暴行事例」に対する「目撃例はわずか1件」というもの。
しかし史料を確認していくと、これは20万の安全区避難者の「20万人が見た目撃例=1件」ではなく、「20万人のうち国際委に報告した人間の目撃例=1件」でもない。
実は、「20人弱の国際委メンバー自身の目撃例=1件」のことである。

「20万人の安全区住民のうちの20人弱」が「1件」目撃したという事項を、「目撃事例はわずか1件」と語るわけだ。

ポイント;基礎知識のない人間は、「わずか20人」による目撃例ということがわからないので、「なんだ、たったの1件か」と受けとめてしまう。

●その他指摘を受けたり思いついたら補足予定


http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano0.htmlも参照されたし。

一般的に、「歴史書」は、いろいろな「資料」を一定のストーリー(あるいは「史観」)に沿って再構成し、事件の実像を描く、というスタイルで書かれていると思います。「南京事件」についての、洞氏、秦氏、吉田氏、笠原氏、藤原氏の概説書(と限らず、いわゆる「歴史書」一般)は、すべてこのスタイルです。

 当然のことですが、「資料」の意味を捻じ曲げて引用したり、「資料」から演繹的に読み取れること以外のことを勝手に付け加えたり、「ストーリー」と明らかに対立するデータを無視したり、意図して公正を欠く記述を行うことは、「禁止事項」です。これでは「歴史書」ではなく「歴史小説」になってしまいます。

 ところが東中野氏のこの本は、捻じ曲げ引用、勝手な解釈、対立データの無視、一方的な記述―「禁止事項」のオンパレードでした。いやはや、ここまでいいかげんな本だったとは・・・。


というわけで、いま東中野氏の最新の文章にチェックを入れているところです。
少しお待ちを。