植民地朝鮮の独立運動を無視/矮小化しつつ、チベット独立運動を評価する人のダブスタ手口


http://blog.goo.ne.jp/ojisannsama/e/f15bb346671becf1e77090e258e5c626
での、「三・一万歳事件」を巡る議論が興味深かったのでピックアップしてみた。
植民地朝鮮の独立運動を無視/矮小化しつつ、チベット独立運動を評価する人のダブスタぶりが、如実に現れている。


きっかけは以下の発言から。

? (ワシ。何だお前?)
2007-01-06 01:14:56

それと、日本人は朝鮮人を虐殺はしていない。
全然違うだろう???

Unknown (通りすがりの日本人)

あれれれ 3.1万歳事件をしらないのかな?

Unknown (通りすがりの日本人)
2007-01-06 01:42:09

で、実際に独立運動が起こったわけです。それを支配者の日本が力で弾圧したのが3.1万歳事件です。

ここで潜水艦さんが横から入る。

魚雷撃ってみるかね (潜水艦)
2007-01-06 10:26:09


三・一事件にしろ、あれも小作人朝鮮人地主のトラブルがたまたま暴動化しただけで、組織的な独立運動とは何の関係もないらしいしな。つーか、すげー圧政だったんなら、全国規模の暴動がなんでそれ以降は起きなかったのかね?

「三・一事件は独立運動とは無関係」説である。
当然、これに反論が。

Unknown (通りすがり)
2007-01-07 23:21:18

3.1事件は2月8日に起草された独立宣言文があります。3月1日ソウルパゴダ公園に集まった民衆に孫乗熈署名のこの宣言文が読み上げられ「大韓独立万歳」を叫ぶ20万人規模の大デモに発展し、その後半年間に渡って朝鮮全土で行われました。
これのどこが、「たまたまの暴動化」だったんですかね? 
この事件により日本の官憲の取り締まりはいっそう厳しくなり警察制度がどんどん拡大していきましたので、独立運動の指導者たちは国外に逃れ海外で臨時政府を立ち上げるなどの外部からの活動が多くなりました。そのような状況の中、国内においても間島事件や光州学生運動などの国内での独立運動は頻発していましたよ。

Unknown (通りすがり)
2007-01-07 23:31:17

朝鮮の3.1事件の時の記述です。
「被検束者は罪の軽いものでも、苛酷な「不逞」の報 いが待っていた、それは縛り上げて天井につるし、焼け火箸を押しつけたり、爪の下に針を刺したり、 鼻から水を注入したり、女性を裸にしたり、人間を家畜視しなければできない拷問であった。」

出典の提示要求。

長いので (ワシ。一旦此処で切って置く。)
2007-01-08 00:44:59

何処に、何の本に書いてあった?信憑性は高いのか?
(これに関しては知らなかったので真摯に受け止めよう)明確な説明を求む。

出典の提示。

nknown (通りすがりの日本人)
2007-01-08 01:29:38

憲兵政治から3.1運動へ」姜 徳相 昭和53年


ちなみに姜徳相(かん どくさん、1932年〜 )氏をウィキペディアで検索すると、以下の通り。
歴史学者。現韓国の慶尚南道咸陽郡生まれ。専門は朝鮮近現代史。1955年3月 早稲田大学第一文学部卒業 1960年3月 早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了 1963年3月 明治大学大学院文学研究科博士課程修了1989年4月〜1995年3月、一橋大学社会学部教授。1995年4月〜2002年3月、滋賀県立大学人間文化学部教授。現在、滋賀県立大学名誉教授。

ここでまた潜水艦さんが首をつっこむ。
いったい彼は、どんな本を読んでいるのか?

おかしなひともいたものだ (潜水艦)
2007-01-08 01:46:56


オホウホウホウ、三・一独立運動は大規模で組織だったものだったとおっしゃりたいようですなぁ。で、もういっぺん聞くけど誰からそんな話を聞いたんだい? 朝鮮の先生かね?
つーか、それって韓国の歴史教科書かなんかに書かれてることじゃなかったっけ? 戦前の朝鮮で一番警戒されてたのは、ソ連から進入してくる朝鮮人スパイだって聞いたことはあるんだけどな。
共産化は警戒してたけど、独立運動を抑えるために大規模な軍の派遣や警察官の動員やってたなんて知らんぞ。

さすがに呆れられる。

Unknown (通りすがりの日本人)
2007-01-08 02:14:50

はあ? 日本でもたくさん文献出てるだろ?
あんたが読んでないか意識的に避けてるだけだよ
入門編としては「一億人の昭和史」でも読めば?

潜水艦さんは、チベット独立運動についても、以下のような侮蔑的な言葉を吐くのだろうか?
小作人と地主のトラブルがたまたま暴動化しただけで、組織的な独立運動とは何の関係もないらしいしな。」
「オホウホウホウ、独立運動は大規模で組織だったものだったとおっしゃりたいようですなぁ。で、もういっぺん聞くけど誰からそんな話を聞いたんだい? チベットの先生かね?」



参考:ウィキペディアの「三・一独立運動
チベット独立運動との比較参照のために、少し長くなるが引用する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95

民族代表33人

高宗の急死後、国葬が行われる3月3日に向けて独立運動が計画されるようになった。中心となったのは天道教キリスト教、そして仏教の指導者たちである。彼等は会合を重ねて大衆化・一元化・非暴力の三原則を取り決めた。同時に朴泳孝など高官への働きかけや学生に対する参加呼びかけも行ったが、前者への働きかけは成功しなかった。

3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。実際には仁寺洞の泰和館(テファグァン)に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をした[1]。参加者は、孫秉熙らの天道教代表15名、その他李昇薫らのキリスト教代表16名、韓龍雲(ハンニョンウン)、白龍城(ペクヨンソン)らの仏教代表2名の計33名であったという。そのためしばしば民族代表33人といわれる[2]。独立宣言書は崔南善(チェナムソン)によって起草され、1919年2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教キリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布したとされる。

独立宣言
「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする」という一文から独立宣言は始まる。タイトルに、そして冒頭の一文に明確に述べられているように、この宣言書は何よりも朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり、そしてそれは「人類平等の大義」と「民族自存」という原理に基づくものとして捉えられている。この他、朝鮮という民族国家が発展し幸福であるためには独立を確立すべきこと、そしてそのために旧思想・旧支配層・日本からもたらされた不合理なものを一掃することが急務であること、朝鮮の独立によって日本及びそこに住む人々との間に正しい友好関係を樹立することなどが宣言の骨子となっている。

一読して分かるように、非常に理想主義によって貫かれた独立宣言文であった。特徴的なのはその戦闘性の希薄さであって、日本に対する独立宣言でありながら、その日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている。これは三原則の一つ非暴力理念を反映した結果といえる。

こうした理想主義的な独立宣言に対し、抽象的で具体的な行動指針が示されていないといった批判がマルクシズム的歴史学から寄せられたこともある。しかし現在では多くの民衆を動員せしめた点で、その意義は大きく評価されている。

運動の広がり

発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及んだ。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。

規模

三月から五月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る。そしてデモの回数・参加人数が多かったのは京畿道や慶尚南道黄海道平安北道などの地域であった。地方都市でデモを行う場合、人が集まる「市日」(定期市が立つ日)が選ばれ、通常より多くの動員ができるよう工夫された。

運動の担い手と形態

運動の初期には、その発生は大都市に集中し、担い手は学生や教師といった人々が主導した。しかし運動が広がりを見せ、地方都市や農村に舞台が移るようになると参加する人も多様となり、農民や労働者、商工業者、官僚、両班などが参加するようになった。

運動の形態には、デモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、閉店などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって運動を行っていたが、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ、暴徒化していった[3][4][5]。これに関して「暴徒化した理由は日本側の弾圧が激しくなったための抵抗である」という意見や、逆に「暴徒を鎮圧するために多少の武力を使うことは、どの国でも行われる当然のことである」とする意見[4]などがある。

「被害」

襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。

日本の対応
日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の鎮圧(弾圧)強化を行った。それはこの運動を短期間で終わらせることで、パリ講和会議における不安定要因を除いておこうという考えからであった。そのため多くの犠牲が朝鮮側に生じた。当時、上海に亡命しており伝聞の情報であると本文中に書かれている朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るという。[6]

こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は4月15日に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて一斉射撃の後放火焼殺され、他にも日本側が放火し15村落317戸が延焼し、39人が亡くなったというのが全貌である。その違法性については日本側も認識していたらしく「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。・・・之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上に報告している。[7]

この他の悲劇としては江西事件、砂川事件、密陽事件、孟山事件、陝川事件、定州事件、南原事件、京畿道狩川及び花樹里の焼き討ち、ソウルの十字架虐殺事件などがある。

(略)

運動の終息

朝鮮総督府当局による武力による鎮圧(弾圧)の結果、運動は次第に終息していった[9]。司法的には以下のように決着がつけられた。逮捕・送検された被疑者12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴され、残り1,151名は調査中とある(1919年5月8日時点)。1919年5月20日時点で一審判決が完了した被告人は4,026名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名。[10]ただ国際世論の眼に触れない地方では懲役15年や10年という判決が下されることもあった[要出典]。

きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙(ソンビョンヒ、天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善(チェナムソン)ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている。下級審で3年以上の比較的重い刑を宣告された者でも、最終的には高等法院(最高裁判所)において内乱罪の適用が一括して棄却され、保安法及び出版法などの比較的軽い構成要件のみの適用により、刑期も大幅に短縮された。高等法院で確定した刑期も、1920年大赦令によりさらに半減されている。こうした軽い刑となったのはアメリカなどの批判があったからである[要出典]。

一方司直の手を免れた活動家たちは外国へ亡命し、国内における独立運動は挫折した。その結果、三一運動が挫折した後、 1945年の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。ただこのうち後に独立派の中心人物となった金九は、事件後中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府に参画している。朝鮮人移住者の多かった満州の間島地域では、独立軍の抗日武装闘争が活発化し、青山里戦闘などの事件が起きた。

当時の反響
日本のマスコミ

発生当時の新聞の論調は圧倒的に運動に対し批判的で、紙面には「朝鮮各地の暴動」、「鎮南浦の騒擾」、「三・一暴動」(さんいちぼうどう)、「三・一鮮人暴動」(さんいちせんじんぼうどう)といった字句が踊っていた。しかしやがて武力に頼った統治、すなわち武断統治に対する批判も徐々に一部の新聞に掲載されるようになる。「擾乱の有力なる原因」は朝鮮総督府の統治方法にあり、このたびのような事件を今後防ぐために朝鮮人の待遇改善や武官総督制を改め文官も総督と就けるようにすること、警察制度の強化、同化政策を推進すべきとの論調が出るようになった。これらは武断統治に限界を感じた原敬内閣の意向に沿うものであった。

吉野作造石橋湛山ほか

日本の世論は圧倒的に三一運動を暴動とみなす論調が強かったが、一部には運動に同情を寄せる識者もいた。たとえば民本主義を標榜し、大正デモクラシーの主導者となった吉野作造は『中央公論』などに朝鮮総督府の失政を糾弾し、朝鮮の人々に政治的自由を与え、同化政策を放棄せよとの主張を発表した。また孫文との交友で知られる宮崎滔天は運動を「見上げたる行動」と評価し、朝鮮の人々の自由と権利を尊重し、いずれは独立を承認すべきと述べている。この他石橋湛山柳宗悦なども運動への理解を表明している。