「プロパガンダ映画」というラベリング作戦か?(産経記事についての考察)

グッテンタグ監督映画に対する産経の扱いは、強引に映画と「レイプ・オブ・ナンキン」を結びつける=ただのプロパガンダ映画というラベル(レッテル)を貼る、というところに焦点があるのでは、と私は推察する。

そうすれば、この映画を観る価値は(作品未公表の段階で)ゼロになり、あえて上映を欲する者に対しても「プロパガンダの片棒を担ぐ人間」というラベルを貼ることができる。
さらに、一部の人間が上映妨害運動を行うことに根拠を与えるだろう。

しかし、実際の映画が「プロパガンダ」から距離をおいたものに仕上がる可能性もあるのである。産経の記事にも、あるいはワシントンポスト記事にも、その可能性を否定するだけの根拠は述べられていない。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/07/30/AR2006073000026.html

このように推察した上で、現時点での私のスタンスを述べておきたい。
・同映画が「レイプ・オブ・ナンキン」を下敷きにした内容である可能性を、現時点では完全に否定しない。
・しかし、同映画が「レイプ・オブ・ナンキン」を下敷きにした内容であるとは(企画書を読んだ限りでは)判断できない。
・むしろ、「南京事件を複数の視角から明らかにしていこう」という作品に仕上がっているかも、と期待を抱く。

この手の作品は、NHKの「民衆法廷」番組の件に見るとおり、編集の最終段階で内容は大きく変わりうるものである。来年1月のサンダンス映画祭で作品が披露されるまでの間に、勝手な決めつけをしてもしようがないと思う。