靖国神社と「ほめてごまかすメソッド」追補編1


靖国神社と「ほめてごまかすメソッド」に多くのコメントとブックマークコメントをいただきました。それらに触発されて追補を書こうと思いましたが、いろいろな方向に考えが進んで1回のエントリにまとめきれませんので、少しず追補します。

最初に、D_Amonさんのブクマコメントを紹介します。

D_Amon   高橋哲哉氏は顕彰によって悲しみを喜びに変える「感情の錬金術」について語ったが、「不必要な死」を考えれば靖国の欺瞞性はそれどころではない。「不必要な死」への怒りすらごまかしているのだから


エントリした本人が明確に意識化できていなかったのですが、「ほめてごまかす」メソッドは「怒りの封殺」メソッドでもあるということをD_Amonさんのコメントに触発されて考えました。

同時に想起したのが、秦郁彦南京事件」65〜66頁の、南京戦の前の上海戦(上海事変。1937年8月〜11月)に関する記述です。以下に引用します。

とくに最初から上海戦に投入された部隊は、定員数を上回る損害を出し、十回以上兵員を補充した部隊も珍しくなかった。なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衝撃が大きかった。
東京下町の召集兵をふくむ第百一師団がその好例で、上海占領後の警備を担任するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦地のウースン・クリークへ投入され、泥と水のなかで加納連隊長、友田恭助伍長(新劇俳優)らが戦死した。
「東京兵団」の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞いこむ戦死広報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れて加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さにたえかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。

この記述からは、1937年の「東京下町」では戦争に動員した側(国家)と動員された側(家族、あるいは「下町」という地域)の間の「緊張関係」を読み取ることができます。
動員する側はいわば虚偽の触れ込みで下町の男性たちを上海戦に動員し、動員された側は家族の戦死を受容できず、憲兵が「報復」を恐れるほど「殺気立つ」。
遺族たちの怒りが敵軍や敵国の「支那」だけではなく、戦争に動員した自国軍の側にも向けられていたことがここから読みとれます(その怒りが連隊長に向けられるのが適切だったかは別問題ですが)。

少なくとも、ここでは家族の戦死を「(国のため、あるいはみんなのための)必要な死」として納得されていたとは言い難いでしょう。むしろ程度の差こそあれ「不必要な死を余儀なくされた」ことへの怒りが、そこに表出されているように思います。

当時の日本においても、戦争に動員した側(国家)と動員された側(家族や地域)の間は完全に「つるつるべったり」ではなく、動員された側の「怒り」が(限定的であれ)表出しうるような関係であった。つまり1937年時点においても「怒り」は潜在的に存在し、動員する側はそれを「ごまかす」必要があった、と私はとらえています。
それ以前に、クリークでの最激戦(文字通りの泥沼の戦い)への動員を「上海占領後の警備を担任する」と触れ込んでいる時点で、どうしようもない「ごまかし」なのですが。

したがって「怒る」側と「ごまかす」側のせめぎあいは、1937年の日中戦争勃発時点から現在に至るまでずっと継続している現象であり、動員する国家の側と動員される地域・家族・個人の側の緊張関係も常に存在しているのではないでしょうか。つまり69年越しの現象ということです。

「ほめてごまかす」メソッドも、この69年のせめぎあいの歴史の中に位置づける事象なのだろうと思います。そしてそういうせめぎあいの歴史の中に、kmizusawaさんが指摘された

kmizusawa 直接関係ないが、ドラマとかで取り上げられてる「戦争」って最後の半年のあたりばっかりだよね。こういうことも「英霊に感謝」みたいな意識形成につながっているかもしれないとちと思いました

という事象も位置づけられるのではないかと思います。

今回の追補はここで終わりますが、あとどうしても追補としてとりあげたいのが、NHK特集「日中戦争」の最後に出てきた、福井県勝山市竜谷にある、木造の小さな「鎮魂堂」のことです。次回はその話から始めるつもりです。