「戦地で死んだ者を追悼する」イコール「靖国参拝」ではない
戦地で死んだ者の霊はどこにいるのか、本当は誰にもわからない。*1
靖国神社は戦死者をひとまとめに「合祀」していると言うけど、ひとりひとりの「霊」が靖国神社に集まっているという客観的根拠はない。
いや、「霊」はいろいろなところにいる、だけど靖国神社はそれらの霊と私たち生者との間の接点(チャンネル)として存在しているという考えもあるだろう。しかし「霊」の側が、靖国神社を生者とのチャンネルとして認めている、という客観的根拠はない。
つまり、靖国神社が「霊」の居場所ないし接点というのは、主観ないし共同主観にすぎない。*2
誰の共同主観か? そう、靖国神社という宗教法人とその支持者の。
ここで想起すべきは、国家によって戦争に動員され戦地で死んだ約230万の半分以上は、戦闘による死ではなく餓死だったということだ(藤原彰氏の研究による。http://blog.goo.ne.jp/taro606/e/cd85127bb4af3394d9ac40fc6a00d437などを参照)。荒っぽく言えば戦死ではなく国家による虐待死が半分以上を占めた、ということである。
餓死した兵士の霊は靖国にいるのか?靖国を生者との接点にするのだろうか?軍から食糧の供給もされず飢えて死んでいった者の霊は、自分たちを「英霊」と一方的に顕彰する靖国神社を居場所や接点として「選択」するだろうか?
死者の気持ちは私たちには確認できない。私たちは、死んだ者の気持ちを確認することができないまま、いわば勝手に死者を「追悼」(あるいは「顕彰」)したりするわけで、どうやって追悼するのか、そこには生者の主観的な「選択」の余地がある。
「戦死者追悼すなわち靖国参拝」という考えは自明ではない。靖国参拝は、さまざまに考えられる「戦死者追悼」方法の、ひとつの選択肢にすぎないはずである。*3
さて、戦地で死んだ死者を追悼することを欲する生者にとって、「靖国神社に参拝する」という選択肢はどこまで「妥当な選択」なのだろうか?
とりわけ、230万の死者の半分以上が(軍から食糧を与えられず)餓死した、という歴史的事実を鑑みるに、
近代国家成立のため、我が国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳を顕彰し、英霊が歩まれた近代史の真実を明らかにする *4
という考えの宗教法人に参拝することが、果たして追悼を欲する生者にとって「妥当な選択」なのか?
とりあえず、「戦死者追悼すなわち靖国参拝」ということは自明ではないこと、追悼の方法には選択の余地があること、この2点は前提とされるべきだと思う。