国立戦没者追悼施設をめぐる「倒錯」、あるいは「同胞の死」を切り捨てる一部ナショナリズム

そして、このような「他者恐怖」に基づくナショナリズムは、ナショナリズムとしても質的劣化を起こしている。
それは、いくつかのブログで見られる「国立戦没者追悼施設」に対する(過度に)否定的なスタンスであり、その主張が「中韓に屈する形で計画されている」ことを主な根拠としていることに端的に現れていると思う。

このような(「国立戦没者追悼施設」に対する)スタンスはナショナリズムとしては「倒錯」だろう。戦争で死んだ「同胞」(民間人、兵士を問わず)の死を追悼するということ、そのために国立の恒久的追悼施設を建設することは、本来ナショナリズムが自らの課題にすべき事柄であるはずだ(だから、「自称女ロケンローラー」氏のブログで「久々に熱く語る。国立追悼施設って・・・何?」において、同施設に対し「作ってから分かるだろう、その意味のなさに」と評したくだりを読んだときは目が点になった)


ましてや、「あの時代は帝国主義だからやむをえなかった」と考えたり発言する人間は、その「やむをえない戦争の犠牲者」なり「帝国主義という時代の犠牲者」の総体を記憶し追悼することに、「受難者」として記憶し追悼することに積極的であるべきではないのか。なのにそういう人間が、兵士を追悼(注;実は顕彰)する施設の存在を以て事足れりとする例が少なくないということが、「同胞愛」の希薄さを示してはいないか?

例えば新潟に大空襲があったという史実を、日本でどれだけの人が認識しているのか。大阪空襲についても。それから、戦争直後に膨大な数の餓死者が出たということを、たとえば松島奈々子主演の3時間ドラマ「火垂るの墓」で初めて知ったという人も多いのではないか。


話が脱線するが、当ブログでは(開設直後のエントリなのでご存じない方も多いと思いますが)、「戦争被害博物館」という思い付きを述べたことがある。
憎悪の連鎖を断ち切る、という課題…日本と中国

でも、日本政府が東京にアジア戦争被害博物館を作るとか、やれることはあると思うよ

地震があったわけでもないのに10万人も死んだということ

東京には東京大空襲を記憶する平和公園も都営・国営の博物館も存在しない、という事実がなにかを象徴していると想います。

ここでは追悼ではなく「記憶」の場への考えが述べられている(「追悼」より先に記憶することが重要だと考えるので)。


さて、上の文を書いた時点では、「この国が(兵士以外の)戦争による死者総体について、どれだけ記憶にとどめようとしているのか、いや記憶にとどめようという意志がそもそもあるのか」つまり意志の希薄さを象徴している、という認識でいた。、

今この文を振り返ると、なぜその意志が希薄なのかについて、ある仮説を立てることができる。乱暴に書くと、それらの死は「物語」に不要な「死」だからではないだろうか。