「ベッタリ」ナショナリズムの生成プロセス

ここ数日、2つの仮説を同時に議論しているので、いったん整理を行いたいと思う。
2つの仮説というのは
ナルシシズム」→靖国歴史修正主義に傾倒
他者恐怖→「ベッタリ」ナショナリズムに傾倒

だが、この2つの流れは相反するものではなくて、大枠で他者恐怖→「ベッタリ」ナショナリズムに傾倒する人達の集団がいる。その中に「ナルシシズム」→靖国歴史修正主義に傾倒」に傾倒する人達の小集団も含まれる、という構図を私は描いている。

そうそう、ここで補足。歴史修正主義については、「opeblo」のopemuさんが「歴史修正主義」的なものの盛り上がりの背景にも「自尊心が満たされる」「知的優越」といった要素があるのでは、という指摘に影響されたものである。(http://d.hatena.ne.jp/opemu/20051117コメント欄参照)。


http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20051118/p2のコメント欄でも述べたが、「ナルシシズム」→靖国歴史修正主義に傾倒、という流れは小林よしのり戦争論」以降の言説によって大きく掘り起こされたと考えている(この延長上に、さかもと未明氏のような「憂国ナルシシズムの身振りがある)。
それに対し他者恐怖から「靖国」擁護に流れていく流れは、反日デモアジアカップ決勝等を契機に大きくなったもので、かなり最近大きくなった流れだと思う。

後者の、私が「ベッタリ」ナショナリズムと呼んだ傾向について、deadletterさんがその生成プロセスについて仮説を立てられた。(先述コメント欄)。実に的確な仮説だと思うので、そのまま転載する。

# deadletter

「外国ウザイ」という他者恐怖の感情

「道徳的な弱みを見せると付け込まれる」という強迫観念(どんなことであっても付け込まれてはならない)

とにかく他者に対しては完璧な装いで対峙しなければならないという思い込み

南京事件って何のこと?日本の植民地支配って善政だったでしょ?」といった空トボケが強迫的に観念される


という流れの方が自然なのかもしれません。そしてそれを否定する論者は、(弱みをあえて見せようとする)「反日」「売国」としか彼らにとっては表象されない。
最優先はあくまで他者恐怖と「付け込まれることへの恐怖」であって、その他(内部的な緊張関係)など後回しというか、下手すればどうでもいい(興味すらない)、といった感じでしょうか

# deadletter
蛇足ながらもう一点。「内部の緊張関係」なんてことにまで気を回していたら、「他者に付け込まれない事」の達成が危ぶまれる。だからこそ内部の問題についてはむしろ「鈍感」たらざるを得ない。「鈍感」であることは必然だ、ということも言えるような気がします

前者の「靖国ナルシシズム、「愛国」「憂国ナルシシズムもまた他者につけ込まれ、何かが毀損されることを恐怖する。ただし単に「ウザイ」と感じている層と違って、前者は自らの道徳的優位性・知的優位性を突き崩されることの恐怖も存在する。その分だけ自己防衛も過剰になるかもしれない。

こういう「ベッタリ」ナショナリズムに対して私は大きな危惧を持つがは、ナショナリズムとしても質的に劣化したものではないかと私は考えている。具体的には今後のエントリにて考える予定である。