靖国と「お礼・感謝」のナルシシズム

靖国にお礼に行く
今の平和は靖国に祀られている死者のおかげだ

この手の言説の因果律の奇妙さについては既にdeadletterさんのブログ

「今の平和は靖国に祀られている死者のおかげだ」という論理は、社会科学的な因果律としてナンセンスであり、単なる信仰告白以上のものではないはずなのだけれども、

と指摘されているので、少し別の面からこのような言説を考えてみる。

死んだ人はこの世にいないし、仮に霊として存在しているにしても、「靖国」という特定の場所にいる、という確証はまったくない。したがって「お礼にいく」という行為は、かなりバーチャルな行為である。

ここで留意したいのは、お礼や感謝の対象が死者である、そして死者(あるいは霊)は言葉を発することがない、したがって死者や霊は生者に決して問い返さないということだ
言い方を変えれば、生者がどんなに的外れな「お礼」や「謝意」を捧げても、「ハァ? それ、なんのつもり?」という問い返されることがない、生者にとってはある意味「都合の良い」関係性がそこにはある。

こういうレスポンス不在の関係というのは、実はナルシスティックな「お礼」やら「謝意」が容易に行われる、もっとあからさまに言えば「ナルシシズムの温床」となりうる、と思う。

そして実際のところ、死んだ兵士に「お礼と感謝」と述べる人間が、その死者とどれだけ向き合っているのか。

もし、「問い返す死者」という存在(もちろんバーチャルな存在ではあるわけだが)が現れ、「なんでお礼をされるのか、因果関係がわかりません」と問い返してきたらどうなるのか。

bluefox014

>お礼と感謝の気持ち

そういうお礼をされて、戦争で亡くなった兵士たちはどう思うのでしょうね。
「なんでお礼をされるのかわかりません。いったい私たちの犠牲と戦後の平和との間に、どんな因果関係があるのですか」と、死んだ兵士の霊が問いかけてきたら、…何と答えるのですか?

bluefox014

日中戦争で死んだ日本兵に向かって、日中戦争が「やむを得なかったと思える面」とはどういう面なのか、説明できますか?

これはおそらく、ヘビーな問いである。「お礼と感謝…」と述べている生者は、死者は予め生者の「お礼と感謝」を受け入れる者として設定している(と思われる)からだ。

その手前勝手な前提(設定)は何に由来するのか。
deadletterさんは先に引用した箇所に続けてこう述べている。

例えば「今の平和は靖国に祀られている死者のおかげだ」という論理は、社会科学的な因果律としてナンセンスであり、単なる信仰告白以上のものではないはずなのだけれども、その信仰に「自覚」的な者にこそ高い道徳的な価値が帰属させられる、という「気持ちの悪さ」を想起せよ)。「彼ら」が何故その手の宗教的「自覚」に目覚めてしまったのか、は正直分からない。

この説によれば、ナルシシズムを促すのは「道徳的な価値を得る」という動機付け、ということになるのだろうか。