10月30日のコメント欄の続き…論点整理

bluefox014
『青狐です。少し投稿間隔が開き気味ですみません。
大きな論点がいくつもあるようなので、私なりの整理を試みます。

第一の論点は、徴兵した兵士(人命)を徒らに「投機」につぎ込んでいいのか否か、という点です。
国民国家は国民から税金を徴収しますが、徴収した税金を何にでもつぎ込めるわけではないでしょう。例えば、どっかの相場につぎ込んでていいわけではありませんよね(1930年代においてもそうでしょう)。
兵役も同じで、国民国家は国民を徴兵しますが、徴用したマンパワー(人命)を徒に「投機」につぎ込んでいいとは(1937年の時点においても)国民国家としてはおおよそ考えられないわけです。奴隷ではないのですから。
total_ecipsさんは盛んに私企業を参照例に出されますが、そもそも私企業と国民国家を同一化して語るところに相当無理があると思いますよ。

仮にある時期にはある程度の「投機」は認めるとしましょう。しかしそういう前提においても、日中戦争が「許容される投機」の範疇に含まれるのか、否か。これが第二の論点だと思います。
盧溝橋事件は37月7月11日に停戦合意がなされていますね。しかし7月13日には華北駐留の日本軍は,中国軍に北京からの撤退を求めています。つまり,政治中核都市北京から自国軍を撤退させ日本軍が進駐することを中国に要求している。この要求が日中戦争の実質的契機だと思いますが、果たしてこれは「許容される投機」の範囲なのか、否か。
中国にこのような要求をしないと日本は侵略されてしまうと考えた人が当時の軍部にいたのですかね。
ついでに、「日本人居留民の大量虐殺を看過できるハズもなく」とありますが、中華民国で「日本人が大量虐殺」された事件とはいつ、どこの事件のことですか?

さらに、仮に日中戦争から太平洋戦争までを全て「許容される投機」の範囲だとしましょう。それでも野原さんが述べたように「戦争に負けたことにより生じた敗戦の結果責任という問題」を認めるのか、否かというのが第三の論点だと思います。

そして45年2月以降も戦争を継続したことの責任。これが第四の論点。


コメント欄が長くなったので、以降は11月4日のエントリのコメント欄でお願いします。』 (2005/11/04 01:16)

上には含まれていないが、 hokusyuさんの発言。

hokusyu
『いつも思うのですが、少なくとも1920年代以降の段階において(それ以前においても)、日本が「侵略しなければ侵略される」という議論ってどれくらい妥当性があるんですかね。あと、手続き的な正当性って、戦争への動員の正当性をどのくらい担保するんですかね。まあいいや。戦争が投機的であることと、人命を投機的な目的で消費することの是非は確かに別なことです。しかし、後者に踏み込まずに前者だけで語られる歴史に何の意味があるのでしょうか。』 (2005/11/01 20:59)