日中戦争は「投機」か? 兵士の生命はルーレットのチップだったのか?

ボブ・ディランの「風に吹かれて」は、アメリカの奴隷黒人の伝承歌『No More Auction Block』」のメロディを引用しているという。

ディランの「いつになったら気がつくのだろう overkillだと」という言葉は、「競売台はもういやだ」という黒人奴隷達の声に重ねて歌われているのかも知れない。





さて、10月22日エントリのコメント欄から、私とtotal_ecipsさんの議論。
いきなり根源的議論になってしまったように思う。
(太字は青狐による)

# bluefox014
『>60年前の事は60年前の状況に照らして考えるべきなのです。

だとしたら、論点は例えば60年前において、日中戦争という不要な戦争に国民を動員したことへの責任は問われるか不問なのか、でしょうね。そして、日中戦争を早期終結させることもできたのに、長期継続させて泥沼化させ、そこに国民を動員させた責任。それが経済封鎖を誘発し、さらに困難な戦争に国民を動員させた責任。これらが問われるか不問なのか。

私が素朴に思うのは、当時においても、戦争指導者達に国民の生命を徒らに「消費」する権限があったのか、ということです。
もし権限が「あった」とすれば今度は大日本帝国の「国家像」が問われるでしょう。国民は軍隊にとって「奴隷」同然、という国家だったことになります。』 (2005/10/28 03:57)

これに対するtotal_ecipsさんのレスは私の予想を超えるものだった。

# total_ecips
『>bluefoxさん
確かに、今となっては日中戦争は不要に映るかもしれません。
しかし、bluefoxさんのようなブログを開設されている方ならば、それが自然な流れであったと考える事も出来るはずです。
結果論としては不要に感じられる事でも、その時において合理的な判断であったか否かが問題であると考えます。

例えば、こんなゲームがあったとします。
【サイコロを振って出た目の数×1万円のお金が貰えるとして、その手に入った金額をできるだけ有効に使わなければならない。
振れる回数は1回で、お金の使用方法はサイコロを振る前に決めるものとする。
なお、サイコロを振らなかった場合は1円も貰えないとする】期待値で考えて3.5万円の予算を組むべきか、保守的に2、3万程度にするか、
または賭けに出て5、6万の予算を組むか。色々あると思います。
しかし結局出た目が1で、破綻してしまったとしましょう。
ここで「なぜ予算を1にしなかったんだ」と批判しても結果論になってしまいます。
では出た目が4だったにも関わらず、予算を5とか6に設定していて破綻したのであれば合理的でなかったという事になります。
さらに、破綻してしまったにも関わらず(サイコロを振る時点では予測し得なかったが)4万円を貰えたとしましょう。
では最初からサイコロを振るべきでなかったと考えるべきか。
これは予測できなかった事に関して後から批判しているワケで、やはり結果論です。


日露戦争の「この一戦にわが国の存亡あり」が端的に示しているように、
戦争とはサイコロを振るかのような投機的な側面があるでしょう。
勝つか負けるか、どこで矛を収めるか、収められるか、収めさせてもらえるか。
十分に戦略を練ったとしても、先がどうなるかはやってみなければ分からないのです。

 帝国主義の時代に、「将来日本が敗戦してアメリカの庇護の下に異例の経済復興を成し遂げられる事」を現実味を持って予想できた人などいないはずです。「お国取り潰し」になるかも知れなかった。とにかくサイコロを振るしかなかったのです。

たしかに軍部の暴走はあったでしょうし、
マスコミが正確に情報を伝えなかった事もあったでしょう。
しかし国民もまた帝国主義の時代を生き、少なくともある程度は合理的な判断として戦争を支持したのです。そして負けた。
当時の世界情勢やそこに到るまでの経緯を考えれば、
「国民が軍の奴隷であった」という見方は、偏っていると思います。

過去の教訓を将来に活かすとしても、結果論ばかりでモノを考えては不確実な未来に対する術を見誤ります。』 (2005/10/29 13:45)

まず、totalさんは「日中戦争」については述べていない。「対米戦争やむなし」論を100回繰り返しても、日中戦争に国民を動員した理由の説明には全くならない。


次の論点。
戦争には「投機」的な側面があると、total_ecipsさんは言う。
問題は、例えばルーレットゲームのプレイヤーが手に持っているのは貨幣(チップ)だが、戦争指導者が手に持っているのは軍装備、軍資金、そして兵士だということだ。

貨幣には交換可能性がある。300万投機して、その全てを失っても、後で300万を補填する可能性はある。
いっぽう、一人一人の人命は交換可能性を持つのか。ある人が兵士として戦争に「投機」され、その結果右脚を失ったら、別の右脚を補填できる可能性はある…か? 命を失っても、別の命を補填できる…か?

人命は交換不可能性を持つ。この点に目をつぶり、交換可能な、赤紙一枚で補填可能な存在と考えると、兵士もまたルーレットのチップのように扱えるのかもしれない。

しかし、私たちはこの「ルーレットのチップ」扱いを許容できるのか? 1930年代、国民が「ルーレットのチップ」扱いされたことを是認できるのか?


そして、日中戦争は「投機」だったのか? 南京侵攻は投機だったのか? 兵士は「投機」のために中国に送り込まれたのか? 兵士は「投機」のために中国で死んだのか?
日中戦争において「その時においての合理性」があったのか?

日中戦争」という投機のために、国民は兵士として動員され、戦闘に駆り出されたのか?兵士はルーレットのチップだったのか? 当時においても、戦争指導者たちに、兵士を「投機」のチップとして扱う権限があったのか?

そんな権限は「国民は軍隊にとって奴隷同然」という体制でしかありえないと思うのだが、大日本帝国はそういう国家だったのか?