「愛」だからこそ残酷だったりもするわけだ。手放しに賞揚することはできない。


あるブログのコメント欄で、愛国心についてコメントしたのだが、ひょっとするとこういう発言があまりないのかもしれないので転載する。まあ、陳腐なことしか言っていないのだけど。

さて、本論の愛国心に関して思うことを述べます。

私は「愛国」の「愛」という概念、その中身をチェックしていく必要があるのではないか、と考えています。ホロコーストを行ったナチスの党員達も「愛国者」でした。彼らはドイツを愛していた。愛していたにもかかわらず、いや愛していたからこそユダヤ人を、あるいはロマ人(ジプシー)を大量に殺した。同じドイツ人も多く殺しています。

おそらく、ナチスの愛した「ドイツ」とはある観念に基づく「純粋状態のドイツ」で、それは観念の産物である以上、現実のドイツはどうしても「不純物」を抱えているわけです。だから純粋なドイツを求めて、大量殺人をも辞さない、それは愛するドイツのために…という論理ですね。
ですから、人は「愛」とか「愛国」の名において残酷にもありうるわけで、「愛」は素晴らしい、と手放しで賞揚するわけにはいかない、というのが私のとりあえずの考えです。

ここではナチスを例に述べたが、日本においても「純粋」の側に立って「不純」を排除していくという発想を「愛」という言葉で正当化していく動きはあるわけで、「愛」の内実を不問にして「愛は自然な感情」「愛は健全なこと」みたいな「素朴な」話ですむこととは私には思えない。