あの、1937年の日本には、報道検閲があったのですが(3)

下記の質問については、山崎行太郎さんのお返事を待っている状態。

文芸評論家でおられる山崎さんはおそらくご存じだと思いますが、当時の日本には報道管制がありました。具体的には「新聞紙法」第二七条により、陸軍関係記事は事前にゲラ2部を警視庁及び各府県警察部に提出し、許可を得たもの以外は掲載を禁止されていました。


にもかかわらず、山崎さんは「書かなかった…」という意味は大きい」「書くべき「事件そのもの」(?)がなかったのでしょうね」という認識なのですか?



ところで、内務省警保局『出版警察報』第110号、111号所収、1938年初頭に国内で発禁となった刊行物とその記述の一部。

1938年1月17日
日本武道新聞 第55号 「戦地だより」
『日本軍に対し行動疑惑ある部落の如きは之を攻め妻女の前にて夫を斬り子の前で親を撃ち家に火を放ち之を掃蕩する事もあります』

1938年2月4日 
西部菓子飴新報 第103号
『敗残兵見付け次第一人残せず切ころして居ります面白いものです……男と云はず○と云はず見付次第殺されて居ります一人残さずと言ふ意気込みです』

ちなみに、吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』56頁からの孫引き。
自分ではまだ『出版警察報』を見ていない。
そのため、南京戦の記述か、そうでないのかは未確認。

ただ、この時点で発禁処分がどのような記述に対して行われたのか、という一つの手がかりにはなる。

また、「新聞紙法」第二七条が従軍記者に「自主規制」を促した可能性は大いにあるが、具体的にどのような「自主規制」が行われたのか、推し量る手がかりにもなるだろう。

それにしても「日本武道新聞」記事の筆者も、「西部菓子飴新報」記事の筆者も、告発的な意図など全くなく、どちらかいうと「無邪気に」上記の記事を書いたのでしょうね。
そのこともまた、すごいと思う。