「悔い改めていない」姿勢の象徴としての日の丸・君が代

暴風さんの応答
http://d.hatena.ne.jp/bowwho/20050404

>>bluefox014さん。トラックバック&コメントありがとうございました。

>>日の丸・君が代問題の一つの核心は、もともと大日本帝国の国旗国歌であった旗と歌を、どうして日本国がそのまま継承したのか、その理念が全く茫洋としていることだと思います。

全く同感です。2ちゃんねる用語で言えば禿同ってやつです。

そんなことまで書くと話が飛びすぎますし、歴史に「もしも」は無いから無意味な話なのですが、わたし的にベストだったと思うのは、戦後、GHQかなんかの指示でも良いですから、新国歌と新国旗を制定しておけば良かったのではないかとおもうのです。そうすれば、私は、新国歌新国旗を使うでしょうし、日の丸君が代には安心して(?)反対できる筈です。逆に『「大日本帝国は正しかった」という理念に基づいて継承する』人は、新国歌新国旗に反対し、日の丸君が代の復活を訴えればよいのですからこれはこれで安心なんです。でも今から新しく決めるのは無理だろうなあ。

これを読んで思い出したのは、戦後まもなくは新国旗・新国歌を制定しようという運動が事実存在し、それがいわゆる「逆コース」の流れのなかで、国会の場で取り上げられないまま潰えた、という事象だ(ソース失念。岩波新書だったと思うが、後日確認)。
この時点で、「新国旗・新国歌制定の動きを潰す→旧帝国時代の国旗・国歌を惰性的に再使用する→既成事実化」という流れは、プログラムされていたように思えるのだ。

いま、惰性的に使用と書いたが、それは惰性を利用した「旧帝国・皇国的なものの再接続」と言い換えることもできるだろう。庶民の側から言えば惰性的な再使用だが、それは為政者の「惰性を利用した再接続」プログラム、の結果であるという側面を無視はできない。

私個人はというと、このような「惰性を利用した再接続」自体への嫌悪感が強い。