歴史と「倫理の次元への感受性」


駒込武氏が2001年に書き記した文章に、重要な問題提起がある。
http://www.jca.apc.org/~komagome/taiwan.htm

あらゆる「歴史」が語り手の欲望によって再構成されたものであるのは確かである。しかし、「歴史」を「物語」に還元してしまうこともできないと私は思う。
実際の世界が互いに矛盾する複数の「物語」がせめぎ合う場だからこそ、自分にとってのおもしろさや有用性には還元されない次元、すなわち、他者との共存を可能にする倫理の次元への感受性が求められているのではないか。
一定の「物語」によって抑圧されたり、抹消された人々による抗議の声によって、自己肯定の「物語」は絶えず組み替えられねばならない。ただし、それは、「あとがき」で小林が述べるように、「加害者意識と罪悪感」にがんじがらめになることではない。「日本人」の存在を実体的に考えようとする小林こそ実はステレオタイプな「加害者意識と罪悪感」に囚われており、その裏返しとして自己肯定のための物語を無理矢理つくりあげているように私には思える。
そうではなく、自分には容易に理解しがたい言動や歴史的出来事の前にたたずむような経験こそ大切なのではないか。そして、そうした経験を通して、自分の物語の自己中心性を克服し、他者との新しい関係(公共性)を創造していくことも可能になるのだと思う。あくまでも『台湾論』の歪んだ歴史観は批判されなくてはならない。自己肯定の「物語」を越えて、他者と出逢うために。


駒込氏の言葉は、「自虐史観」という言葉を使いたがる人たちにとっては理解困難なものかもしれない。ただはっきりしていることは、歴史は「自己肯定」のためのツールではないし、「自分探し」のツールでもないということだ。

中国人がチベット支配の歴史的出来事の前に「ただずむ」こと、日本人が戦前の支配や侵略の歴史的出来事の前に「ただずむ」こと、それは決して「自虐」的行為ではなく(あるいは表面的には自虐に見えてもそうではなく)、倫理的な次元に自らを高めていく回路なのだと思う。