ビラ撒き弾圧の理由が「平和を担保するため」?


「麻生を倒せ!ないかくだとう」実行委員会という有志集団が新宿駅東南口でビラまきをしていたら、警察(警視庁新宿署)によって中止を余儀なくされた(1月16日)経緯の映像が公開されている。

「2009年1月16日「以前はできたはずのビラ撒きに不当介入!!!!」
http://jp.youtube.com/watch?v=yvK6vWdRD9o&NR=1

ウイスチワオ氏が語る「新宿署によるビラ撒き介入の不当性とは?」
http://jp.youtube.com/watch?v=mG_11h5iQ-o&feature=related


左の女性が私服刑事で、映像中に以下の発言を行います。
5分59秒ごろ。
太字は引用者による。

ガタガタいまここで配るんだったら、逮捕するよ。アタシたちの権限で逮捕できるから」

表現の自由とか、日本国民のね、平和の担保のためなの


「平和の担保」を理由にビラまきの中止(それも逮捕をちらつかせるかたちで)を強いるとは、さすがに驚嘆せざるを得ない。
さて私がこの映像から想起したのは、mojimojiさんが昨年書かれた以下のエントリ「運動の戦略、とか言われるものについて」の、以下の指摘だった。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061127/p1

私たちは一部の人たちに重荷を押し付けるようなやり方をやめよう、と言い、むしろその重荷を共に背負うこと、そうした重荷を減らすことを主張すると同時に、重荷を減らすための努力を求めるという意味においてさらなる重荷を背負うことを求める。一方、彼らは、相変わらず重荷を一部の人に押し付け続け、そうした負担から共謀して逃れ、安穏と暮らそう、と誘惑する。どちらの道も同じように負担を求める道であって、その中から魅力的な道を選ぶ、という構図にはなっていない。彼らに同意することは、とても安易で楽なことである。私たちに同意することは多少の覚悟を要求する。

以下、太字は引用者による。

私は食べることができ、彼は食べることができず、ほっておけば死んでしまう。そのような状況を事実として知るとき、その事実を私は拒否したい気持ちになる。拒否したい気持ちが高まるとき、その事実を前に何もしないことそのものが苦痛となる。この良心の苦痛によって、より困難な道は、むしろより居心地のよい道となる。だからこそ、私たちはわざわざその道を行こうとするのである。だから、私たちの第一の武器は、この良心の呵責を生じさせるところの真実を隣人に手渡すことである。だから、私たちの基本戦略が話すことに、表に出ることに、暴露することにあるのに対して、彼らの基本戦略は黙ること、隠れること、隠蔽することにある。これは偶然そのようになっている、というわけではないのである。