批判されるべきは「自殺しなかった」ことではないはず


前日のコメント欄にも書いたことの繰り返しになりますが。

読売の某編集委員「他人を殺すくらいなら、自分ひとりが世を去ればいいものを」と書かなかった。「世の中が嫌になったとしても殺人は許されない」とも書かなかった。「世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去ればいいものを」と書いた。さらにその文章が、社内チェックを通っている。

書き手は年収1千万以上もらっている文章のプロですから、文章力が拙いなどという言い訳は通用しないだろう。しかも事件の発生(日曜日)から10日(火曜日)朝刊用の記事を書くまで、時間がなかったという言い訳も通用しそうにない。

「軽率だった」では済まされないと思う。




700以上のブクマが付いているので既読の方もおられると思うが、id:boiledemaさんの以下の記事から、いくつかの文章を引用します。
http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20080610

犯人は他人を巻き込まず、一人で勝手に死ねばよかった、そう言う人は多い。裾野市なので富士の樹海は近い。だが、犯人があのまま秋葉に行かず、一人樹海に向かったとしても、誰も探しに行かなかっただろう。

派遣会社も、派遣社員の同僚も良くあるバックレとしか思わず、社員はいなくなったことも知らない。

そのことを思いついたとき私は全身が寒くなった。

身震いするほどの孤独がそこには存在する。

人間としてみなされていない人は、他の人も人間としてみなさない。凶行の背景には、凍えるほどの孤独が生み出す負のスパイラルがある。

繰り返すが、だからと言って、無関係な人を殺したことの言い訳にはならないが。

今回の犯行について、樹海に入っても誰にも気づかれず死ぬのは嫌だった。

己の存在で社会に爪あとを残したかった。そう思うなら、こんな選択肢にはまりこんでしまった彼の愚かさを呪う。

貧困の問題に対して、5重の排除というものがある。教育、企業、家庭、公的福祉、そして最後が自分自身からの排除だという。

どうしょうもない絶望に追い込まれた人は、自分の不甲斐なさを呪い、自分を追い詰めてしまうという。理由は本当は外にもあるのに。

ほとんどの人が絶望を前に勝手に一人で死んでいるのだ。

絶望の背景を他者に見出すことができたなら、それをなぜ別の手段に訴えられなかったのか。歯がゆくて悔しくて、悲しく憎らしい。

ああ、まったくお前はバカだ。バカすぎる。

ほぼ同感である。

加害者の行為は愚かだと私も思う。しかし加害者が批判されるべきは、boiledemaさんの言う「別の手段に訴えられなかった」ことに対してであって、「自殺しなかった」ことに対してではない、はずだ。

この程度の、最低限の思考と表現への繊細さが、読売の「編集手帳」には欠如していたと思う。
あるいは思考したうえで、敢えてあのような表現を選んだのかもしれないけど。