あえて、宮台真司氏の不毛な態度について

「数学屋のメガネ」さんの南京事件に関する主張に対して突っ込みを入れていったらキリがないのですが、この人の主な関心は「南京事件」そのものよりも「宮台真司氏の南京事件観」なんじゃないでしょうか。宮台氏の

http://d.hatena.ne.jp/khideaki/20070331/1175301327

まず30万人説ありきという前提で問題を考えれば、どちらの側にとっても建設的な未来はないだろうというのが宮台氏が語った趣旨であり、僕も賛成する考え方だ。

 この「考え方」に基づけば、(南京事件について)まず「30万説は正しいか否かという論点」から考えるのは不毛であるとなるはずですが…
 しかし、TBSラジオの宮台氏自身の態度こそ、そのような「不毛」な態度に該当するのではないですか。

「まず30万人説ありきではない」態度に立つならば、例えば「南京大虐殺はあったが、30万人説は誇張だろう」「南京大虐殺はあったが、30万人説は虚構だろう」と述べるのが自然でしょう。
南京大虐殺を「南京30万虐殺」とローカル定義したうえで「南京大虐殺はなかった」と述べるのは、私には「30万人説」にとらわれすぎた態度にすぎないと思います。こういう態度について、私はかつて「ローカル定義症候群」と呼んで批判しましたが、TBSラジオの宮台氏の態度も、この「ローカル定義症候群」そのものでした。

数学屋さんは、まず宮台真司氏を批判するのがスジでしょう。


補足として、「数学屋」さんが現在とっておられる態度も、まさに「30万説は正しいか否かという論点」に拘っているように思えます。
同じエントリの次の記述。

しかし、遺体が残っていない人々については、どのような殺され方をしたのか、どうして遺体が残らなかったのかが整合的に説明されなければ、それは幻のような幻影だといわれてもしかたがないのではないだろうか。

この部分を読んでがっかりしました。
「30万人説」に拘らず「南京事件」の概要を知ろうとする人は、まず事件全体の概要が書かれた書籍を読むはずなんですね。秦「南京事件」とか笠原「南京事件」とか藤原「南京の日本軍」とか。
そして概説書を読んだ人は、中国人の埋葬記録にない遺体=「幻影」などとイージーに述べたりしないはずなんですが。「日本軍が処理した遺体」「揚子江に投棄された遺体」が多数存在するのに幻影扱いするのか、基礎文献読み直せ、と言われるのがオチです。
(これ、東京大空襲でも同様ですね。「記録」にない遺体は幻影、などと述べたら、炭化した遺体や海に流れた死体は数えられないだろうが、基礎文献読み直せ、と言われるのがオチです)。


しかし数学屋さんの上記発言は、勝手に「遺体は地上に残っていた」「そして中国人が埋葬した」ことを勝手に前提にして語っています。厳しい言い方をすれば「まったく基礎知識が欠けています。基礎文献読み直してください」。

まず、南京事件そのものを知ろうと努力すべきでは? その努力をスルーして「30万人説論争」にコミットしていこうとする態度に思えてしようがありません。それは、私には「不毛」に感じます。