戦時国際法を無視する「数学屋のメガネ」の主張

南京事件に関して、「数学屋のメガネ」さんが、宮台真司氏の発言を契機に発言を続けているのですが、さすがにこれは暴論ではないですか。

数学屋のメガネ;「論理的」とはどういうことか
(ちなみに、以下の二つのブログとも内容は同じです)
http://d.hatena.ne.jp/khideaki/20070318
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/50944106.html

一部を引用します。全文はリンク先を参照ください。

軍人の本分がそのようなものであれば、一人のゲリラが紛れ込んだ村というのは、そのゲリラを特定して殲滅しなければ自分たちが危険であるということが論理的に帰結されるだろう。そして、その特定が出来ないとき、村人がゲリラを特定するだけの情報を与えなければ、そのことで村人が犠牲になっても仕方がないと考えるのが軍人の論理だろうと思う。

軍人の論理に従えば、一人のゲリラを殲滅するために100人の村人が犠牲になっても、それは虐殺ではなく、任務遂行の際に起こった事故であり止むを得ない犠牲だと考えるだろう。それを虐殺だという判断が大勢を占めるようなら、軍人の論理がまったく通用しない「言語ゲーム」が行われているのだと思う。

論理的におかしいという指摘は、例えば戦闘行為の過程で起きた民間人に対する殺人行為が「虐殺」に当たるかどうかを客観的に決定できるとするような推論は、まったく論理的ではないと僕は感じる。客観的ではなく、主観的に、自分の立場からそれを「虐殺」だと主張することは出来るだろう。しかし、立場を越えて客観的に「虐殺」であるという判断が出来ると考えるなら、それは論理的に見ておかしい。

「虐殺」の場合は、このような意味での客観性はない。「虐殺」というのは、ある物質的な実体に属する性質ではないからだ。これは「行為」の問題である。つまり外見上は同じ物質的状況に見えても、その意味が違ってくることがあるという問題になる。「行為」という対象は、外見ではその内容が判断できないのである。「虐殺」のように見えても「虐殺」ではないという判断も出来る対象なのだ。だから、意志とは独立に存在する物質としての客観性は「虐殺」にはない。

それでは、まったく客観性がないかというと、社会的な意味での「客観性」を言うことは出来ると僕は思う。社会的な意味での「客観性」は、「主観性」に対立する意味での「客観性」だ。つまり、党派的な立場からの判断で導かれる結論は「主観的」であるが、党派を超えた、ほぼ誰でもそのような判断が出来るということであれば「客観的」になる、という意味での「客観性」だ。

軍人の論理で言えば、一人のゲリラを殺すために100人の村人を殺しても「虐殺」ではないと判断できる。それは、軍人としての任務を遂行しているに過ぎない。この党派性を超えて、ほとんどの人が賛成できるような「虐殺」の定義が出来るだろうか。それが出来るなら、「虐殺」という概念を「客観的」に決定できるだろうが、戦闘行為が行われている過程では、僕は無理だろうと思う。それは、軍人の立場である「殺す側の論理」と、村人の立場である「殺される側の論理」では、前提とするものが一致しないので党派を超えた結論が出せないと思われるからだ。

戦闘行為中の「虐殺」行為は客観的に決定できない。だから、戦闘行為中の「虐殺者」を数えるのは、党派的な主張にしかならない。客観的に正しい数字など出せるはずがない。だから、「南京大虐殺」で、虐殺された人の数に、戦闘行為の過程での人々が含まれているなら、僕はその数字の客観性は「蓋然性」がないと思う。どんな数字が出ようとも意味はないのだと思う。どんなに大きい数字でも、どんなに小さい数字でも、いずれも信用できる数字にはならない。党派的な、ある立場から主張する数字であって、権力のある側が主張するなら、それは単なるプロパガンダに過ぎないと思われても仕方がないだろう。

そういう「軍人の論理」は当時の戦時国際法で否定されています。
当時の戦時国際法を判断基準に「虐殺」と判断することを、「数学屋のメガネ」さんは「党派的な、ある立場からの主張」と解釈し、「権力のある側が主張するなら、それは単なるプロパガンダ」と解釈するようですね。

私から言わせれば、そのような、当時の戦時国際法も無視した論理は「トンデモ」にしか思えません。そのトンデモ論理から「言語ゲーム」とか「党派的主張にすぎない」とか「プロパガンダ」などと述べるのは、そうとう無茶苦茶だと思います。