「捕虜の据え物斬り」を小学校で講演していたN大尉

南京事件の百人斬り名誉毀損裁判で、最高裁の上告棄却決定が出された(12月22日)。

ひとつ確認しておくべきことがある。それは、今年6月に指環さんが「思考錯誤」掲示板で紹介していたように、N大尉は「捕虜の据えもの斬り」を行ったことを公言していたということ。それも地元の小学校や中学校での講演で、動作を交えて述べていたのだ。

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=2632;id=sikousakugo#2632

秦郁彦氏が「百人斬り」についての論文を書いています。『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実』と題する論文で、日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号に(一)と(二)に分かれて掲載されています。非常に面白い内容ですので紹介いたします。

 秦氏は、投降捕虜処刑の有無の問題についての独自のヒアリング調査の結果等を次のように述べています。
 

次の論点は投降した捕虜処刑の有無だが、筆者は志々目証言の裏付けをとるため、志々目が所持する鹿児島師範付属小学校の同級生名簿(有島善男担任)を頼りに一九九一年夏、数人に問い合わせてみた。明瞭に記憶していたのは辛島勝一(終戦時は海軍兵学校75期生徒)で、野田中尉が腰から刀を抜いて据えもの斬りをする恰好を見せてくれたのが印象的だったと語ってくれた。
 また北之園陽徳(終戦時は海軍機関学校生徒)は、「(野田は)実際には捕虜を斬ったのだと言い、彼らは綿服を着ているのでなかなか斬れるものではなかった」と付け加えたと記憶する。他の三人は野田が来たのは覚えているが、話の中味はよく覚えていないとのことであった。
 裏付けとしてはやや頼りない感もあるが、最近になって野田の母校である県立鹿児島第一中学校の名物教師だった安田尚義の著書に付された年表の一九三九年七月二十四日の項に、「朝礼後野田毅中尉の実戦談を聴く」と記載していることがわかった。

     (中略)

 野田が鹿児島を訪問したのは三九年五月に戦地から岐阜へ帰り、八月に北朝鮮の会寧へ転勤した合い間の七月で、鹿児島一中、付属小、それに父が校長をしていた田代小学校と少なくとも三ヵ所に顔を出したようだ。その時、鹿児島一中の三年だった日高誠(のち陸士五十八期を卒業)は、野田が全校生徒を前に剣道場で捕虜の据え物斬りの恰好をして見せたのを記憶している。彼は違和感を持ったが、あとで剣道教師からも「とんでもない所行だ」と戒められたという

 そして、秦氏の結論です。

 どうやら一般住民はともかく、野田が白兵戦だけでなく、捕虜を並べての据え物斬りをやったと「告白」したのは事実らしい。


本人が公共の場で「捕虜殺害」を公言していた以上、そもそも毎日新聞(旧・東京日日新聞)・朝日新聞本多勝一氏を「名誉毀損」で訴えるのは大きな無理があったとしか思えない。まず先に、N大尉本人の講演で語った内容が「虚偽」であることを証明しない限り、毎日や朝日の報道内容を虚偽だと主張することなどできないのだから。


12月22日、最高裁で上告棄却の決定が出され、原告側の敗訴が確定した。
http://www.asahi.com/national/update/1222/TKY200612220388.html

旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬(ぎ)り競争」をしたとする当時の新聞報道や、後にこの問題を扱った書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ故人を慕う遺族の気持ちを傷つけられた」などとして、朝日、毎日両新聞社などと本多勝一元朝日新聞記者に出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めた訴訟の上告審で、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は22日、遺族側の上告を棄却する決定をした。朝日新聞社などの勝訴が確定した。

 二審・東京高裁は「百人斬り」を報じた当時の記事について「全くの虚偽であると認めることはできない」と認定し、請求をすべて棄却した一審・東京地裁判決を支持した。

(太字は青狐)