日本軍史料にみる第十軍・上海派遣軍の放火行為


南京戦以前の時点で、すでに陸軍中央部は現地軍の放火行為に憂慮していた。
たとえば三七年一〇月二〇日に陸軍中央の多田駿参謀次長が第十軍参謀長に与えた、兵站に関する注意事項には以下のような記述がある。

既往作戦の実績に徴するに占領せる住民地を破壊焼却するの弊風あり(「第十軍作戦指導ニ関スル参考資料其一」)


また第十軍参謀長も、杭州湾上陸直前の「軍参謀長注意事項」で以下のように述べている。

上海方面の戦場に於いては殆ど家屋を焼却せし為、軍の後方に於ける病院設備、宿営に利用すべき家屋殆ど皆無にて甚だしく不利を招きつつあり。


しかし第十軍参謀長の注意は、以下のように「成るべく」焼却するな、という指示にとどまる。

家屋、村落は敵が之を攻撃する為戦術上必要ある場合の外は成るべく之を焼却せざるを要す。之時将に寒冷季に入らんとするに際し軍の休養及び衛生上家屋村落は極めて其利用価値大なるを以てなり


 つまり、自分たちの宿営に利用するから、なるべく家屋を焼くなという注意にとどまっている。これに対し吉田裕氏は「中国人の家屋や財産そのものをできる限り保護しようとする発想が完全に欠落している」と指摘している。


 このような、住民の財産保護に留意しない司令部のもとで、兵士たちは「暖をとるため」あるいは「飯を炊くため」に家屋や家具を壊し、薪にして燃やしていた。
 野戦銃砲兵第十三連隊長の橋本欣五郎氏は、戦争中の三九年に雑誌「改造」に掲載された「陣中日記」という文章の中で、以下のように書き記している。

先ず宿舎に着くと、一番、兵のために必要なものは、食糧は勿論のことであるが、薪である。家の中を見れば、労力を掛けずに一番早く燃し得る物は、机とタンスの引き出しで、それから、腰掛に移って、遂には大きなタンスになる。かういふやうな風で、だんだん家の中の物がなくなっていって、最後にはただ柱の家のみとなる。住民は遂ひ出され、家の中はからっぽになる


第十六師団の歩兵第33聯隊(歩兵第30旅団傘下)の召集兵だった高島市良氏の日記の記述は既に。
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060724/p2で紹介した。

雨は降るし、飯盒炊事するにも薪はない。手当り次第に家を壊して焚く(1937年11月17日)


さらには、退屈しのぎや腹いせで放火に及んだという事例も日本軍史料で確認できる。
第十一師団歩兵第四三連隊の水間信一氏の三七年一一月一四日の日記には

森に包まれた民家があちらにもこちらにも火災を起こしている。第一線は余ほどの距離があるのに何故の火災だろうと聞いてみれば、あれは特務兵が退屈だから遊びに行って民家を焼いているのだと聞かされた

という記述がある。また、第十軍の法務部陣中日誌にも三七年一一月十三日のこととして、第六師団の特務兵三名が民家数軒に入って酒・煙草などを物色したが入手できなかったため、「腹癒気分より」四戸の民家に放火した事例が書き記されている。*1

*1:以上、吉田裕「天皇の軍隊と南京事件」からの孫引き