「戦争動員責任を直視しない」現象

さて、全国戦没者追悼式で、国会の代表者(衆院議長)が、はじめて「戦争動員責任」に言及した。
画期的であると同時に、これまでの60年政府や国会が「戦争動員責任」をスルーしてきた、という事実を直視する必要がある。

 河野洋平衆院議長は15日、全国戦没者追悼式の追悼の辞で「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」と述べた。追悼式のあいさつで、先の大戦の責任論に言及するのは異例。具体名には触れなかったが、A級戦犯らのことを指しているものとみられる。

 河野氏は追悼の辞で、故・吉田満氏の「戦艦大和ノ最期」に描かれた、死地に向かう艦上での将校たちの対話を引用。そのうえで「新生日本の『目覚め』を信じ、そのさきがけとなることを願って犠牲を受け入れた若い有為な人材たちに思いをはせるとき、戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」と指摘した。(朝日新聞8月15日夕刊)

戦争指導者の戦争動員責任をスルーするナショナリストたちの考えに対し、私は「ベッタリ・ナショナリズム」という言葉で表現したことがある。「ベッタリ」とは、戦争指導者に対してベッタリという意味である。「動員された側」と「動員する側」の間の緊張関係・敵対関係を無視・軽視しているという意味を含んでいる。
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20051118
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20051125
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20051126

そしてその中でこう述べた。

こういう「ベッタリ」ナショナリズムに対して私は大きな危惧を持つがナショナリズムとしても質的に劣化したものではないかと私は考えている。

靖国は明確に「ベッタリ・ナショナリズム」の方向にコミットしてしまっているし、小泉首相の参拝も彼が「ベッタリ・ナショナリスト」であることを行動で表現した、ということだろう。
これに対し河野氏は「脱ベッタリ・ナショナリズム」に明確にコミットしたもので、ここに一つの対立軸があることを確認したい。