第十軍司令官の「山川草木全部敵なり」発言と、その背後にある恐怖感


第十軍司令官・柳川平助中将*1の発言について考察する前に、既に紹介した第十軍参謀部作成の作戦案(「昭和十二年十一月三十日付けの南京攻略に関する意見送付の件、丁集団参謀長発次官あて」)を再び再掲。

南京ヲ急襲ニヨリ奪取シ得エザル場合ノ攻略案
此ノ場合ニ於イテモ正攻法ノ要領ニヨリ力攻スルコトヲ避ケ左記ノ要領ニ依リ攻略ス
急襲案ト同一要領ニヨリ先ズ南京ニ急追シテ包囲態勢ヲ完了シ主トシテ南京市街ニ対シ徹底的ニ空爆特ニ「イペリット」及焼夷弾ヲ以テスル爆撃ヲ約一週間連続的ニ実行シ南京市街ヲ廃墟タラシム
(中略)
本攻撃ニ於イテハ徹底的ニ毒瓦斯ヲ使用スルコト極メテ肝要ニシテ此際毒瓦斯使用ヲ躊躇シテ再ビ上海戦ノ如キ多大ノ犠牲ヲ払フ如キハ忍ビ得ザルトコロナリ


第十軍は、「蒋介石政権を屈服させる」という目的のために、「「イペリット」及焼夷弾ヲ以テスル爆撃ヲ約一週間連続的ニ実行シ南京市街ヲ廃墟タラシム」ことを真面目に作戦として提案しているのである。
この発想、東京大空襲や広島・長崎原爆の大規模殺戮の発想を先取りしていたとも考えられる。


さて、この第十軍の司令官だった柳川平助中将について、「週刊文春」1965年2月22日号、宇都宮徳馬氏と大宅壮一氏の対談において両者が言及している。

宇都宮 松井家とは、家族的につき合っていたんです。あのあと、奥さんと電車のなかで会いましてね。「わたしゃ、共産党になりたい」・・・怒っていましたよ。南京虐殺の責任者にされたんだが、事件のとき、松井さんは嘆いたそうですね。日本軍の軍紀が、こんなに乱れたのははじめてだ・・・。あれは柳川平助中将が・・・。

大宅 あの人は上陸と同時に、演説をブッたそうですね。「山川草木、全部、敵なり」。ひどい非常手段で進んできたんです。ボクら、南京に入るときにあの兵団と会いましたよ。

http://www.geocities.jp/yu77799/bunkajin.html

この「山川草木、全部、敵なり」という柳川中将の発言は秦郁彦南京事件」でも紹介されている。ただ、文書史料は提示されていない。
しかし、イペリット焼夷弾で「南京市街ヲ廃墟タラシム」ことを真面目に提案する第十軍の柳川司令官が「山川草木、全部、敵なり」と述べることは奇異なことではないだろう。*2




この発言は南京戦の日本軍の残虐性を示す指標として引用されることが多い。
しかし、この発言は侵略する側の「恐怖感」の反映でもあるだろう。相手を屈服させるために手段を選ばない残忍さと、(中国人全てが「敵」に見えるほどの)恐怖感を払拭したいという感情の双方が、「山川草木すべて敵なり」の背後に感じられる。

そして、こういう恐怖感を払拭するためなら、民間人(特に成人男子)を殺害することも躊躇されず、そのために銃弾を消耗することも「銃弾の無駄使い」とは扱われないだろう。

*1:柳川中将はその後司法大臣などを歴任したのち終戦の7か月前、45年1月22日に病死しているので、戦犯として訴追されることはなかった。http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/ww2/jinbutu/yanagawa.htm参照。

*2:なお、大宅が述べた「ひどい非常手段で進んできたんです」に関しては、上砂憲兵隊長の証言http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20050430があり、また松本重治氏が同盟通信の従軍記者から聞いたという「柳川 兵団 の進撃が早い のは、将兵の間に略奪強姦勝手次第という暗黙の了解があるからだ 」(「上海時代(下)」)というエピソードがある。