(メモ2)茂木氏、2つもデマ連発

茂木弘道氏の新しいエントリ(2月2日付)「ブラック・プロパガンダ」は、
http://d.hatena.ne.jp/hmotegi/20060202

その前のエントリ「WILL3月号」のコメント欄の、私と煙さん両名の質問への返答として書かれたもので、
http://d.hatena.ne.jp/hmotegi/comment?date=20060127#c

この2月2日付エントリの内容は、基本的には「東中野氏たちの主張」を検証する上で非常に検討する価値のあるものだと思いますが(このあと3回か4回に分けて検討します)、まず手っ取り早い事柄を紹介してしまうと、茂木氏はこのエントリで致命的とも言える「デマ・捏造」をいっぺんに2件もやってしまいました。「ブラックプロパガンダであるかどうかは、事実を語っているかどうかです」と言っている本人が、ですよ。


まず1点目。
発端は27日コメント欄・煙さんの、南京市の空間範囲に関する突っ込み。

「世田谷区ほどの広さの南京」とありますが、東中野氏の「南京事件の徹底検証」48頁を見ると「ちなみに南京市は、民国23年(昭和9年)の各省市区分によって、南京城内の8区のほかに、城外の燕子磯区(城北)、孝陵区(城東南)、上新河(城西南)の三つの郷区を併合した」とあります。この範囲は、 1946年南京法廷の主張する南京事件の空間範囲とほぼ重なりますが、1937年時点の南京市が「世田谷区ほどの広さ」というのは、これは明らかに事実と大きく異なるはずですが、この点いかがお考えになりますか。

これに対し、茂木氏はこう返答されました。(太字は青狐による)

まず、南京の地域が近郊を含む広域になっていたではないか、それを南京城内の世田谷区以下の地域に限定するのはけしからんという論についてです。この論は南京城内では、どうしても大虐殺など成り立たないということになったものだから、最近虐殺派が盛んに言い出していることです。その典型は現在虐殺派の代表的な学者!?である笠原十九司でしょう。中国の学者も参加した会でこの論を持ち出したところ、お気の毒にも中国の学者から、30万は城内のことだ!と一蹴されたことがありました。(恥をかかないように2度とこういうことは言わないほうがよいように思いますが、どうぞご自由にということです)。
そもそも南京法廷、そして東京裁判で虐殺の饗宴が起こったとされているのは、南京城内です。ですから、そこで「実際」はどうだったのか、ということを押さえることがまずは何よりも大事なことです。そこでの状況を推測するのにもっとも有力な元情報のひとつが"Documents of the Nanking Safety Zone"なので、まずはこれを引用したのです。

基本的に、東中野氏たちの主張は以下の二本柱で構成されていて、

1;安全区以外(城外+安全区以外の城内)は無人地帯。人がいないのに虐殺が起こるはずがない。
2;住民のいた安全区でも、虐殺目撃はゼロである。虐殺は最大で二桁。

したがって「南京事件=安全区だけで起こった事件」という構図を強弁する傾向にあるのですが、茂木氏はなんと「南京法廷、そして東京裁判で虐殺の饗宴が起こったとされているのは、南京城内です」と述べてしまった。

これがデマであることは、南京軍事法廷判決文を読めば一目瞭然。
煙さんのエントリから孫引き。
http://d.hatena.ne.jp/kemu-ri/20060203

調査によれば虐殺が最もひどかった時期はこの二十六年十二月十二日から同月の二十一日までであり、それはまた谷壽夫部隊の南京駐留の期間内である。中華門外の花神廟・宝塔橋・石観音・下関の草鮭峡などの箇所を合計すると、捕えられた中国の軍人・民間人で日本軍に機関銃で集団射殺され遺体を焼却、証拠を隠滅されたものは、単燿亭など一九万人余りに達する。(「事実」より)
(1947年3月10日・南京軍事法廷の判決文『南京事件資料集 2中国関係資料編』)

南京を陥落させて以後、共同攻撃した各部隊と南京市内各地区に分かれて侵入し大規模な虐殺をおこなった。捕らわれた中国の軍人と民間人で、中華門・花神廟・石観音・小心橋・掃箒巷・正覚寺・方家山・宝塔橋・下関草蛙峡などの場所で、残酷にも集団殺害され死体を焼却された者は一九万以上に達する。中華門・下埠頭・東岳廟・堆草巷・斬龍橋などの場所で分散的に殺され、遺体が慈善団体によって埋葬された者は一五万以上に達する。被害総数は合計三十万人余りである。(「理由」より)
(同上)


…南京軍事法廷の判決文には、城外の地名が並んでいます。「軍人・民間人」と書かれています。

考えられる可能性。
1;茂木氏は、南京軍事法廷の判決文を読まずにそもそも南京法廷、そして東京裁判で虐殺の饗宴が起こったとされているのは、南京城内です。と述べた。
2;茂木氏は、南京軍事法廷の判決文を読んだうえでそもそも南京法廷、そして東京裁判で虐殺の饗宴が起こったとされているのは、南京城内です。と述べた。
…どちらでしょうか。



さて2点目。茂木氏の発言。

しかし、この記録がどういう状況で作られていたかというと、当時南京の日本領事館の事務官で交際委員会の相手をしていた福田徳泰(戦後大臣も歴任した)によると、「シナ人が国際委員会にやってきて、こういうことがあった、とまくし立てると委員はそれをそのままタイプして日本への抗議書として提出していたといっています。」「おいおい確かめてからにしてくれ」といっても聞いてもらえなかったそうです。

問題は「提出していた」といっていますの部分です。
では、毎日新聞社「一億人の昭和史 日本の戦史 日中戦争1」261頁所収、福田正泰氏の発言を引用しましょう。

当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。「いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。
「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。

福田氏は、フィッチが「タイプしている」のを目撃していますが、そのタイプした書面を「提出していた」とは述べていません。福田氏の発言はこの他4冊の雑誌・書籍にて確認されていますが、いずれにも「提出した」とは書かれていません。

…福田証言を「創作」してしまった茂木弘道氏。

だいいち、ワープロやPC普及前から、欧米のビジネスシーンでは書記や秘書がメモや議事録やヒアリングの際にもタイプライターを使っていると思うのですが、南京安全区国際委ではメモは手書きで、タイプライターは提出書類専用だったと茂木さんは主張されるのでしょうか?

加えて、茂木さんが翻訳に携わった「南京安全地帯の記録」の「日本兵不法行為の実例」の冒頭には、たとえば以下のような記述があります。

以下のものは私どもが綿密に調べる時間を持てた実例に過ぎず、私どもの担当者にはもっと多くの事例が報告されています。

つまり、国際委への報告事例数≠日本大使館への提出事例数であり、国際委が綿密に調べた事例を日本大使館へ提出した、と国際委は言明しているのです。
ヒアリングした内容をそのまま日本大使館に「提出」したという根拠は、福田氏の発言の中にも、「南京安全地帯の記録」にも見いだせません。


もともと茂木氏が福田証言を持ち出してきた意図は、私の「発生事例数≒目撃事例数≒報告事例数≒提出事例数≒掲載事例数、なのですか?その根拠は?」という質問に対して「発生事例数<提出事例数」であるという、かなり無理のある「結論」を強弁するためでした。しかしその「結論」を強弁するために福田証言に存在しない言説を「創作」するに至っては、茂木氏自身が「ブラック・プロパガンダ」を実践している、と評されても仕方がないのではないでしょうか。