ナショナリズムって、こんな大仰なお話でしたっけ? (2)

まだ頭の中が雑然としているのだが、とりあえず続き。
ナショナリズムって、こんな大仰なお話でしたっけ?」という問いを立てたのだが、なんだか「ナショナリズムは大仰でしかありえない」ような気がしてきた。少なくとも今の日本では。


「愛」という言葉に注意が必要だと思う。

ナショナリズム そこに生れたことより抜粋。

 「その国」に生れてきた意味は、歴史的状況やその環境によって重くなったり軽くなったりすることもあるとは思います。たとえば現代のアメリカに生れてくるにしても、ヒスパニックに生れるかアフロ・アメリカンに生れるかコーカソイドに生れるか等々の方が重要と思われる場合もあるでしょう。いえ、それよりも裕福に生れるか貧乏に生れるかが大きく関わるという意見もあるかもしれませんし、男に生れるか女に生れるか、あるいは東部に生れるか中西部に生れるかが大きく人生を変える場合だって考えられなくはありません。

 しかしそれでも「アメリカに生れること」の持つ意味は少なくないはずです(国籍が属地主義で与えられるということもありますし)。そしてそこに重要な意味があり、この国が体現する価値を守り育てることを求められているんだということを教え、要求していたのがこの就任演説の一節であったわけです。

 そこに生まれたこと(そしてそこで育つこと)というのは言わば運命的なものです。それをどう捉えるかは各自に任されていると言ってよいでしょうが、その国で生まれ育つということを必要以上に軽んじることはできないと思います。

 誰も生れたくて生れてきたんじゃない…というのは一面の真実ですが、生れてきた以上人はそこにできるだけ意味を探そうとします。その意味の一翼を担うものに、そこで生まれてきたことというのも考えてよいはずです。ならばその運命は愛したいと思ってしかるべきでは?


これを読んで最初に思ったことは、「じゃあ社会主義国家に生まれた人間はどうなんだろう」ということだった。仮に私がソ連時代のロシアに生まれたとして、ソ連に生まれたということはいわば運命的なもの、か。「生れてきた以上人はそこにできるだけ意味を探そうとします。その意味の一翼を担うものに、そこで生まれてきたことというのも考えてよいはずです。ならばその運命は愛したいと思ってしかるべきでは?」

北朝鮮に生まれた人間にとって、「その「運命」は愛したいと思ってしかるべき」なのだろうか。その「運命」を愛するとは、いったいどんなことなのであり、どんなことではないか。
何を愛し、何を愛さないことなのか。

人は「国家」に対してそれほど「ナイーブ」になれるものなのか。ある国家に生まれたという「運命」に対し、人は没判断的に「好意的」になれるのか。
北朝鮮に生まれたある人が北朝鮮に生まれたという運命に「好意的」だとしたら、それは何を以て好意的なのか。判断はあったのか。没判断だったのか。判断しようにも、判断の材料はあったのか。判断の機会を奪われたのではないか。


個人的に思うのだが、人と「国家」は、本来そんなに「ベタ」ではないような気がする。それなりの距離があるはずではないか。
その距離感を感じなくさせる、というのが「ナショナリズム運動」の一つのキモ、なのかもしれない。それゆえ、それは「ロマン主義」的傾向をあらわにしたり、疑似宗教的傾向を持ったり(社会主義国の場合も「ロマン主義」的傾向や「社会主義教」支配、という傾向を強く感じる)していくのかもしれない。

そして、距離感を失わせる大きなファクターとして「愛」がある。「愛」によって距離は無化されたり、縮まったりする。
そして「愛」や「愛着」は自発的に芽生えるだけでなく、外部から誘導されたりもする。マスメディアが浸透した中で生活していると、どこまでが自発的な愛情で、どこからが誘導された結果としての愛情か、その境界は不鮮明となっていく。