日本には何本の川が流れているのか


唐突だが、ナショナリズム関係の議論で、uumin3さんのブログでコメントを入れた。議論の流れを要約する時間がないので、こういうコメントをした、という取り敢えずのご報告。


[2005-10-12 - uumin3の日記
[ナショナリズム] 樹形図モデルと河川図モデル

uumin3さんの発言の一部。

 Schwaetzerさんのようなタイプは「樹形図モデル」です。これは、現在ある存在には必ず「根(root)」があるという発想に基づきます。だからこそ、「日本料理」と誇らしげに語ってもそれは京都の地方料理に過ぎない、とか「平家物語」を日本の伝統としてもそれはインド発祥の仏教と、それを漢訳した中国人のおかげで初めてこういうものが書けるのだ、という話になるわけです。なるほどそういう風に見れば、オリジナリティは解体され、日本文化に根拠がないというような語り口になるでしょう。

 しかし単純にこれは承服できるものではありません。このタイプの語り口はすべてをオリジンに還元してしまうもので、そのような単純な論理は通常の文化論においては乱暴すぎます。日の本に新しきもの何もなし…それは言い過ぎでしょう(笑)

 これに対するモデルとして、私は「河川図モデル」があるのではないかと考えます。樹形図の逆です。河口付近にある川(現在の存在)には、様々な支流が流れ込み、それが一つの実体を作り上げているという発想です。

 ほんの小さな流れとしてでも、それぞれのエスニシティーが影響を与えつつ現在の日本なり日本文化は創りあげられている。そう考えれば、今の日本をつくりあげてきた一つ一つの小さな郷土、小さな歴史のすべてがともに日本の今に大事なものであると思えるわけです。

私のコメント。

#bluefox014
uumin3さんの仰る河川図モデルを想定した場合、2005年の今は河口部にいるのか、それとも中流あたりにいて今度別の流れと合流するかもせれないのか、という問題が存在すると思います。それから、今の「日本」には何本の川が流れているのか、一本なのか複数なのか、という問題も。
uumin3さんの河川図モデルについての発言を一読して、アメリカ合衆国における「メルティング・ポット」モデル対「サラダボール」モデル、というあたりを思い出したのですが、河川図モデルがメルティングポット(るつぼ)の中で単一化・均質化された「アメリカ文化」とか「日本文化」という概念に接続されてしまうと、ちょっとまずいんじゃないかな、という印象を持ちました。なんというか、「共同体主義」の人に利用されちゃう心配というか…。

# bluefox014 『もちろん、私はメルティングポット理論を全否定とか、サラダボール理論全面支持、というわけではないので、自分自身の発言も気を付けないといけないね、と思ったのでありました(笑)

たとえ融合文化であっても、単一の文化共同体としてネイションを描くことには、あんまり同意できないな。