足立和雄記者の目撃証言(その2,1984年)


1975年に『守山義雄文集』で南京での目撃体験を語った足立和雄・東京朝日新聞記者は、1984年に阿羅健一氏のインタビューに応じた。(「「南京事件」日本人48人の証言」所収)
この目撃証言を読むと、1975年の発言とは微妙な差異がみられる。

・南京で大虐殺があったと言われていますが、どんなことをごらんになってますか。

「犠牲が全然なかったとは言えない。南京に入った翌日だったから、十四日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国人を撃っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で撃った。場所ははっきりしないが、難民区ではなかった。

・ごらんになって、その時どう感じましたか?

「残念だ、とりかえしのつかぬことをした、と思いました。とにかくこれで日本は支那に勝てないと思いました」

・なぜ勝てないと…。

「中国の婦女子の見ている前で、一人でも二人でも市民の見ている前でやった。これでは日本は支那には勝てないと思いました。支那人の怨みをかったし、道義的にもう何も言えないと思いました」

・その他にごらんになりましたか。

「その一カ所だけです」


読んでいておや、と思う。75年に足立氏はこう記述していた。

朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた

場所ははっきりしないが」どころか、かなり明確に特定されていた。
75年の記述で明確だった言及が、84年には漠然化している。これはかなり不自然だ。


これは、インタビュアー阿羅氏に大きな問題があると思う。阿羅氏は、当然「守山義雄文集」所収の足立氏の文章を読んでからインタビューにのぞむべきだし、同文集での発言とインタビュー中の発言との整合性を確認するのはジャーナリストの仕事としては必須だし、実際「守山義雄文章」との食い違いが生じているんぽだから、その点について確認をとるのは不可欠だと思われるのだが、そういう最低限の仕事をしていない。
さて、インタビューは以下のように続く。

・大虐殺があったと言われていますが…。

「私が見た数十人を撃ったほか、多くて百人か二百人単位のが他にもあったかもしれない。全部集めれば何千人かになるかもしれない」

・南京城外はどうでした?

「城外といっても上海--南京間は戦闘行為でしょう。郊外を含めて全部で何千人か、というところでしょう。

・そうすると、ほとんど城内であったということになりますね。

「そうでしょう。
青年男子は全員兵士になっていて、城内は原則として残っていないはずだ。いるのは非戦闘員で老人・婦女子だけだ。もちろん全然いないわけではないが、青年男子で残っているとすれば特殊な任務を帯びた軍人か便衣隊だと思われていた。便衣隊は各戦線で戦いの後、日本軍の占領地に入って後方攪乱や狙撃など行っていましたからね。
逃げないで城内にいるということは、敵意を持っていると見られても仕方ない。
軍は便衣隊掃討が目的だったが、あるいはやりすぎがあったかもしれない」

・城内外に合わせて数千人あったということですね。

「全部集めればそのくらいはあったでしょう。捕虜を虐殺したというイメージがあるかもしれないが、それは、戦闘行為と混同しています。
明らかに捕虜だとわかっている者を虐殺はしていないと思います」


足立氏は75年に「南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。」と語っていた。いっぽう84年には「青年男子で残っているとすれば特殊な任務を帯びた軍人か便衣隊だと思われていた」と述べている。ということは、南京にとどまって捕らえられた成年男子はほぼ殺された、ということになるわけで、当然75年の記述にある

中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。

「中国人」はほぼ殺されたことになる。
その、足立氏の目撃した「長い列」は、84年の発言でいう「数十人」程度だったのだろうか。
数十人の列に対して「中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである」という表現を与えるだろうか?

主観的印象だが、84年の発言は75年よりも「縮んで」いるように思える。
この「縮み」問題については、当然いくつかの解釈が考えられる。その問題については次回で考察する予定。

なお、2つの足立証言について、既に精緻な分析がある。以下のサイト参照。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/nangjin-adachi.htm