私たちには圧倒的に情報が欠けている


またまた突発的な、しかも書きなぐりになってしまうけど、靖国問題とかを議論するとき、私たちは過去についての知識や情報に留意したり参照したりしながら考えるわけだけど、私はそういうとき、つねに知識や情報の「ねじれ」のようなものを感じてしまうのだ。知識や情報にムラがありすぎるというのか。

私が感じる「ムラ」とは、加害者自身の証言が圧倒的に少ないということだ。きわめて多くの場合、加害者は口をつぐむ。殺された者は語れない。これは日本に限らない。ユダヤ人や日本人をシベリアで死に追いやったことについて、当時のソ連の当事者は語らない。自国の人間を殺したことについて、中国の当事者は語らない。


私たちは過去の戦争について、加害側の証言・史料を圧倒的に欠いたまま、それ以外の知識・情報を参照しながら、考え、議論する。この時点で、私たちの議論はすでになんらかのねじれを抱え込まざるをえない。

ある部分を大きく欠いた過去の記憶。
ナショナリズムにおいても、過去の記憶が参照される。しかしそこにおいても、ある部分を欠いたままの「過去の記憶」が参照される。