隅田川の光景/揚子江の光景

創価学会青年部反戦出版委員会編「戦争を知らない世代へ」第53巻「揚子江が哭いている 熊本第六師団出兵の記録」所収・第六師団輜重第六連隊所属高城守一氏の証言

こうして、われわれの不眠不休の厳しい追従行軍は、約二週間続き、昭和十二年十二月十三日に、南京の郊外に到着した。途中、市街戦の跡が生々しく、完全な家々は一軒もなく、破壊されつくし、中国兵の死体が各所に散乱していた。

 われわれは、南京城陥落の直後、南京中華門に到着した。壊れ果てた家々のガレキがたちはだかる市街を通過するので、輸送はなかなか困難であった。

 南京城中華門を目前にした時、約十五メートルほどの堅塁である城門を、よくもやったなと、誰もが言っていた。いったん中華門より入城したが、再び城外に出て露営した。

 翌十四日昼前頃、武器、糧秣補給の命が下り、糧秣補給のため、揚子江を登ってきた輸送船が着く下関の兵站まで、物資を取りに出発した。

 昨日までの砲声は絶え、揚子江には、数隻の輸送船が停泊し、護衛艦がゆるやかに、上下に航行していたが、この時、下関で目撃した惨状は、筆舌につくし難い。それは私の理解をはるかに越えたものであった。

 揚子江の流れの中に、川面に、民間人と思われる累々たる死体が浮かび、川の流れとともにゆっくりと流れていたのだ。

 そればかりか、波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体がゆらぎ、河岸には折り重なった死体が見わたす限り、累積していた。それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい数に思えた。

 南京から逃げ出した民間人、男、女、子供に対し、機関銃、小銃によって無差別な掃射、銃撃がなされ、大殺戮がくり拡げられたことを、死骸の状況が生々しく物語っていた。道筋に延々と連なる死体は、銃撃の後、折り重なるようにして倒れている死骸に対して、重油をまき散らし、火をつけたのであろうか。焼死体となって、民間人か中国軍兵士か、男性か女性かの区別さえもつかないような状態であった。焼死体の中には、子供に間違いないと思われる死体も、おびただしくあり、ほとんどが民間人に間違いないと思われた。私は、これほど悲惨な状況を見たことがない。大量に殺された跡をまにあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。

偽証を疑う人のため、念のために第六師団史である「熊本兵団戦史」からも引用。

「熊本兵団戦史」(熊本日日新聞社)より
 それではわが郷土の第六師団はこの南京事件にどんな役割を果たしたのだろうか。

 中国側軍事裁判の資料によれば虐殺された者は四十三万人、うち第六師団によると推定される者二十三万人。第十六師団十四万人、その他六万人という数字をあげている。

 しかし実際には前述のように四十三万人の中には正規の戦闘行為による戦死者が大部分を占めていると推定される。もし戦闘行為を含むものであれば、第六師団は中国軍にとって最大の加害者であることに間違いはない。北支の戦場において、また直前の湖東会戦において、熊本兵団が敵に加えた打撃はきわめて大で、余山鎮、三家村付近だけでも死屍るいるいの損害を与えていた。

 のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。
 これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている。

(「熊本師団戦史」P128〜P129)

「任務上当然追撃の銃砲弾」を浴びせた、その結果を高城氏は見たということだろうか。





青狐注;「第六師団が最大の加害者」なのかどうかは別途考察が必要だろう。
上の史料はhttp://www.geocities.jp/yu77799/kyoudobutai.html南京事件 小さな資料集)より引用しました。
とてもすぐれた資料集だと思います。