靖国神社と「ほめてごまかすメソッド」

もう少し靖国問題で。しかし今日とりあげるのは、靖国神社に限られるわけではない、国民国家ならばどの国家も行いうる(実際に行っている)メソッドの問題である。

今日の安倍晋三氏の発言をみると、戦死者に対して「尊崇」という言葉が使われていた。
http://www.asahi.com/politics/update/0904/006.html

安倍氏と谷垣財務相、麻生外相の討論の司会を務めた田勢康弘早大大学院教授が、靖国参拝の有無を明らかにしない安倍氏に「首相日程を秘密にするのはまず不可能だ」と指摘。安倍氏は「日本のために戦い、亡くなった方々のために尊崇の念を表する気持ちは持ち続けたいし、持ち続けるべきだ」と応じたうえで、「今宣言する必要はない」と語った。

先月の小泉首相の参拝に対する、政府見解(「靖国神社参拝に関する政府の基本的立場」)。
「敬意と感謝」という言葉が使われている。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/yasukuni/tachiba.html

小泉総理の靖国神社参拝が、過去の軍国主義を美化しようとする試みではないかとの見方は誤りである。総理はかねて、靖国神社への参拝は、多くの戦没者に敬意と感謝の意を表するためのものであり、


先週靖国問題で意見交換した、私より若い人の意見。

ただ、純粋に戦争を直接知らない世代であるからこそ、
もう二度と戦争を繰り返さないために靖国神社に祭られている方にねぎらいの言葉と感謝の意を表するのに何の問題があるのでしょうか。
私たちの国を代表して(それが意に反していたかいなかったかは別として。戦争はそういうものだと思うのです。)戦ってくださったんです。

私は、こういう「尊崇」「敬意」「感謝」「ねぎらい」という言葉によって、何かが「ごまかされている」という考えを持つ。これを仮に「ほめてごまかすメソッド」と呼ぶ。
上の意見に対する私の返事。

うーん、(「ねぎらい」「感謝」「戦ってくださった」という言葉のニュアンスから想像するに)●●さんはあの戦争の戦死者を「消火活動中に殉職した消防隊員」や「洪水から街を守った災害救助員」のようなイメージで捉えているのではないでしょうか。

でも先の戦争というのは、国境に外敵が攻めてきて応戦した戦争ではなく、むしろ日本の側がよその国境を越えて侵攻していった戦争だったはずです。日本が攻められたのは日中戦争から終戦までの8年のうち最後の半年。それまでずっと「外から来た放火魔と戦い街を守った」戦いではなく、むしろ自らが放火魔となってよその街に火を付けて回っていたわけです。(ここで「放火」は比喩ですが、実際日本兵は現地の民家の家屋を壊して薪にし、飯を炊いていました。http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060724/p2参照)

ですから兵士は、(国民にとっては不要な戦争のために)軍隊に「拉致」されて、「放火魔の片棒を担がされた」ようなものです。しかも日本軍兵士の死因は、半分以上は餓死(および栄養失調で病死)とされています。これは強制労働されたあげく栄養失調や飢餓で死んだ、虐待死に近い。

このような無残な死に方を強いられた人たちも被害者であり、私は痛切な感情を抱きます。しかしそれは「ねぎらい」「感謝」「敬意」という気持ちからはほど遠いものです。そういう美辞麗句で包み込むことは、私には「ほめてごまかす」行為にしか思えません。


私が「ごまかれている」と考えることを2つに絞って述べよう。
1つは、国民の側からすれば「不必要な戦争」に多くの国民を動員し、海の向こうの戦場に連れていき、その結果多くの国民が「不必要な死」を強いられたこと。
2つめは、1944年の時点で敗色濃厚な状況になっても戦争を終結させず、その結果戦争末期の1年に実に多くの国民が死んだこと。(しかも膨大な数の兵士が「餓死」した)これもまた、国民の側からすれば「不必要な死」であった。


こういう「不必要な死を強いた」膨大な死者に対し、後付けで「最高の栄誉」を与えることで辻褄をあわせようとするのが「ほめてごまかす」メソッドだと思うが、果たして辻褄はあうのだろうか。