軽視される「(小泉氏の)国立戦没者追悼施設構想への冷淡さ」


小泉首相の参拝問題については、「靖国参拝への固執」と「国立戦没者追悼施設構想への冷淡さ」、この2つのコントラストをセットで考えるべきではないだろうか。
にもかかわらず、「不戦の誓いだから問題ないでしょう」といった主張の多くは、小泉首相が「国立戦没者追悼施設構想に一貫して冷淡だったこと」をスルーしているように思うのだが…

小泉氏は靖国参拝を「公約」化するいっぽうで(ちなみに「公約」に掲げた以上、参拝はプライベートではなく政治行動でみなすしかない)、「国立戦没者追悼施設構想」は完全に「凍結」してしまった。
ここに、小泉氏にとってのプライオリティ(優先順位)がはっきり表明されているわけだ。

既に述べたとおり、靖国参拝は追悼行為(グリーフ・ワーク)のone of themにすぎない。
そのなかで、小泉氏はなぜ「兵士だけ祀られている場所」への参拝だけに「固執」し、戦没者全体を追悼する場の構想に冷淡になれるのか。

そして、「不戦の誓いだから問題ないでしょう」という考えの人は、なぜ「冷淡さ」に寛容なのだろうか。
それとも戦没者の中で、「兵士」は「兵士以外」より優先されて当然、という価値観なのだろうか。




ちなみに私の片方の祖母は、呉の軍需工場に徴用され、1945年の空襲で被災した。彼女は一命を取り留めたが(逃げた方向がよかったそうだ。山のほうに逃げた。海のほうに逃げた人は逃げ道を失ったという)、多くの友人・同僚が殺されたという。
もちろん、(殺された)彼女らは靖国神社に祀られてはいない。「国の為に命を捧げた」人の範疇には入らない、ということだろうか。