南京侵攻は自衛戦争になりうるのか(2)

●「自衛のためであるという名義は成り立つでしょう」

確認のため質問してみる。

>そうでしょうか。「自衛」の定義次第だと思います。


そうですか。
中華民国が日本を侵攻する脅威が存在しない1937年時点で、島国の日本が、海で隔絶され、且つ他国との緩衝地帯でもない華中地域の、しかも内陸に300キロ入った都市(南京)や、さらに奥地の都市(武漢)に侵攻しなければならない「自衛的理由」なるものが、自衛の定義次第では存在する、というわけですね。
しかも、当時の軍部ですら「自衛」と位置づけてはいない南京・武漢侵攻に対して。

さて、どのような「自衛」の定義に基づくと、南京(さらには武漢)侵攻を正当化するような「自衛的理由」が付与されるのでしょうか。

ぜひ、その定義と、そこから導かれる自衛的意味を教えてください。

これに対する白河さんの答え。

そんなに難しいことですか?大東亜共栄圏であるにせよ何にせよ、「日本が資源を安定的に手に入れることができる状況や、日本が政治的に安定する状況を作り出すこと」を「自衛」と定義すれば、どんなに遠くの土地を侵攻しても「自衛のためである」という名義は成り立つでしょう。よって、あなたの出した「300キロは自衛ではあり得ない」に疑問を呈したわけです。

この回答から想像する限り、白河さんは南京戦への分析なしに、ほぼ当てずっぽう的に「南京侵攻も自衛戦争と定義可能なのでは」と言っているように思われる。

●ウルトラ価値相対主義

それにしても、このようなエキセントリックな自衛定義を引っ張ってくることに驚く*1。この定義に基づくと、全ての侵略戦争自衛戦争と定義できるし、自国以外の全ての国を殲滅しても「自国の政治的安定」のための自衛戦争と定義できてしまう。要するに、侵略やスーサイドといった概念を全く無化してしまうようなぶっ飛んだ定義を白河さんは持ち込んできたわけである。

●南京戦と無縁(と思われる)定義をぶつけてくる、ということ

それとは別に問題なのは、これらの定義が南京侵攻戦にまったくフィットしないということだ。なのに、白河さんがこれが「回答になりうる」と思っている、そのことにある。反感を恐れずに言えば、何かが決定的に鈍いというか、怠惰なのだ。
次日に続きます。

*1:驚くというより、より正確には悪寒というか、嫌悪感を感じた